『ミドルセックス』:叙情の対位法

 前作『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を読んだときにもそう思ったのだが、ギリシア系アメリカ人作家ジェフリー・ユージェニデスの日本語にして七百頁を超す大作『ミドルセックス』の最初の読後感は「うーん、うまいなあ」というものだった。もちろんこれは単純な褒め言葉ではない。いかにもアメリカの大学の創作科で学んできました/教えています、というような、読者を飽きさせないためのさまざまなテクニックを駆使して書かれた作品を読んで、少し考えさせられてしまった、ということでもある。

 たとえば『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』では、思春期特有の、とくにこれといった動機のない自殺という主題を扱うにあたって、ユージェニデスは少女たちと同じ学校に通う「ぼくら」という少年の(複数の)語り手を設定する。そして異性に関心を抱いてはいるものの、それが自らの性欲に端を発するものだとはっきりと自覚することがまだできないでいる少年たちが、性的な成熟度という点では彼らにまさる美しい五人姉妹の奇矯な言動にいかに惹きつけられていったか、それが嵩じて彼女たちのちょっとした立ち居振る舞いにすら心を奪われるようになっていったかを、大人になった「ぼくら」がほろ苦くも甘美な思い出として語るという外枠の構造を導入する。そのようなお膳立てを整えることで、年頃の少女たちの繊細だが自閉的な感受性を今ひとつリアルなものとして受けとめられない(おそらく主として男性の)読者も、自分が十代半ばごろに感じた、異性に対する憧憬を思い出し、作品に引き込まれることになる。(余談だが、原題に戻して公開された映画『ヴァージン・スーサイズ』は、複数の少年の語り手というこの外枠の構造をうまく活用できていなかったように思う。監督ソフィア・コッポラは美しい映像と印象的な音楽を多用する、いわゆる「雰囲気に頼った」映画作りをしており、その結果、姉妹たちがいかにして自殺するまでに至ったかを、ただぼかして語っているだけ、という印象を与えてしまう。理由のはっきりしない自殺だからこそ、この外枠の構造をはっきり示す必要があったのだ。)

 生まれたときから女性として育てられた主人公カリオペが、十四歳のときに男性の遺伝子型(と停留した睾丸)を持っていることが判明し、その後カリーと名乗って生きてきた半生を四十一歳になった本人が語るという設定の本作『ミドルセックス』でも、同様のテクニックが用いられる。自らに生じた遺伝子の変異の原因を祖父母の代まで遡るという名目で、語り手は自らの半生を語る前に自分たち一族の歴史を語る。生物学的な性決定のメカニズムの複雑さと性自認をめぐる混乱という、どちらかといえば読者を選ぶ題材を核に据えながら、アメリカ現代小説の王道とでも言うべき、移民としてこの国にやってきた自分の祖先の苦難に満ちた生活とその後のささやかな成功および没落という別の物語とそれを接合することで、ユージェニデスは作品をより一般受けするものに仕上げているのだ。

 そしてこのいわば序奏にあたる部分が長いのもこの作品の特徴である。かつてはオスマン帝国の首都であり、一九一九年にはじまったギリシア・トルコ戦争によってギリシアの領土となった小アジアの町ブルサ近郊の村、ビシニオスで生まれ育った姉弟デズデモーナとレフティーが、お互いを異性として意識するようになる。だが彼らは一九二二年のトルコ軍の再侵攻によって故郷を追われ、いとこ夫婦を頼ってデトロイトへ向かう船ジュリアに乗り込む。当初二人は全くの他人同士として振る舞い、やがて偶然の邂逅から親密になったカップルを装って航海途中に結婚式を挙げる、ここまでが第一部。デトロイトにやってきたデズデモーナとレフティーが、いとこのスーメリナとその夫ジズモの家に居候し、やがて二組の夫婦にそれぞれ生まれた子供ミルトンとテッシーが結婚し、「わたし」を受胎するまでが第二部。そのところどころに国務省職員としてベルリンの米国大使館に勤務する語り手の「わたし」の現在の生活と、名前から日系とおぼしきアメリカ人アーティスト、ジュリー・キクチとの出会いについての描写が挿入されるが、この「わたし」が誕生するのは第三部になってからである。そして印象的な「わたしは二度生まれた。最初は、一九六〇年一月、デトロイトでは稀なスモッグの晴れた日に、ゼロ歳の女児として。そして、次は、一九七四年八月に、ミシガン州ペトスキー近くの救急処置室で、十代の少年として」という第一部の書き出しが示す、5−α−リダクターゼ欠乏による男性偽半陰陽であるという診断が下されてからの主人公の半生は、最後の第四部でようやく語られるにすぎない。しかしそれゆえに、読者は主人公の特異な生/性をより大きな物語の一つの断片として無理なく受け入れることができるようになる。

 しかもこの三世代にわたる一族の歴史は、同時に二十世紀のアメリカ、とりわけデトロイトという自動車産業で栄えた町の【ルビ開始(クロニクル)】年代記【ルビ終了】としても読めるようになっている。デトロイトにたどり着いたばかりのレフティーが、フォード社の組立工として働いたり、一九二九年からはじまる大恐慌のせいで悪化した家計を助けようと、デズデモーナが初期のネーション・オブ・イスラムで絹織物を作ったり(しかも、その経歴がいまだに謎につつまれたままの創立者W・D・ファードが、自動車事故で死んだと思っていたジズモであったといういかにも小説ならではの設定もある)することからはじまり、一九六七年のデトロイトの人種暴動とその後の強制バス通学をはじめとする人種融和政策、七〇年代のラディカリズムの台頭など、ある程度年齢のいったアメリカ人にとっては懐かしい事件や出来事が次々と語られる。

 けれども映画脚本家を一時めざしたこともあるというユージェニデスの、こうしたサービス精神たっぷりな仕掛けばかりに目がいってしまい、その背後に通底する独特の叙情性を十分味わえないことがあるとすれば、それは読者にとって不幸なことだろう。物語の語り口のうまさもさることながら、ユージェニデスの本領は、神は細部に宿ると言わんばかりの精緻な想像力によって、ほんの端役にいたるまで、あらゆる登場人物を生き生きと描き出し、さらには複数の主役たちの感情のすれ違いとそれにもかかわらず互いに理解を続けようとする努力を、悲しみとも諦めともつかぬ淡い感情に染め上げて読者に提出するところにある。たとえば十四歳のカリオペの性をめぐって、父親、母親、カリオペ本人そして医師でインターセックスについての世界的権威ピーター・ルースの解釈はそれぞれ異なり、対立する。しかしたとえ彼らの間の認識の差異は埋めようがないとしても、語り手である現在の「わたし」はそれらを理解し、なんとか受け入れようとする。

 もちろん、異なる価値観への共感と理解はアメリカ文学に一貫して流れる主題だし、複数の現実の対立と共存はモダニズムが取り憑かれていた主題だ。だが『ミドルセックス』の登場人物たちは、お互いの異なる現実を理解したつもりになるのでも、あるいは最初から理解しようとしないがその存在を認めるというのでもない。ある種の違和感を残したまま、それを受け入れる。その一方で、自分の現実認識も変えずにあわせて抱え込む。それは対位法で書かれた音楽において、ときどき不協和音を鳴らしながら複数の声部が展開するのに似ている。そしてこの作品におけるもっとも微妙な対位法は、語り手における、女性としてのカリオペと、男性としてのカリーが織りなすそれだ。「わたしの脳は男性化しているにもかかわらず、語らなければならない物語、つまり遺伝的な歴史には、生来の女性的な迂遠さがつきまとっている」。

 この大作を読み終えたあとに、もっとも印象に残る【傍点開始】べき【傍点終了】なのはこの叙情の対位法である。小説的な楽しみに満ち満ちた一つ一つのエピソードは、最後には忘れ去られ、沈黙をもって答えることしかできない叙情の対位法のずっしりとした重さだけが残る。おそらくそれがこの作品の(他の多くの偉大な長篇小説と同様)正しい読まれかたなのだろう。だが実際には、読者は構成のあざとさを意識してしまう。作者の手腕によってまんまと最後まで読まされてしまった、そういう感想をどうしても抱いてしまう。小林秀雄が引用した『徒然草』の一節ではないが、「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ」ことをユージェニデスが知っていれば、もっと素直に感動できたのに、と思うのは望みすぎだろうか。

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