山なりのゆるいボール:曽我貢誠『学校は飯を喰うところ』

ものを書くとき、授業をするとき、言葉が届く範囲、というものを考える。

相手が遠くにいるとき、胸元を狙って一直線に剛速球を投げ込むのは気持ちがいい。遠くからいきなりボールが飛んできたというので慌ててしまって取りこぼしてしまう人もいるが、一瞬驚くものの、きちんと受け止めてくれ、「いいボールだったね」とでも言うかのようににっこり笑ってくれる人もいる。

相手が遠くにいるときに、力のない、山なりのボールを投げてしまう失敗をすることもある。自分としては届けばいいや、と思って投げてみたものの、そして実際ワンバン、ツーバンして何とか届きはするものの、受け止めるほうは緊張感を欠いている。なんだ、こんなボールを投げてよこしやがって、受け止められるに決まっているだろ、という目で私をにらみ返す。

でもまあ、こと遠投に関しては、これまでそれほど失敗してきたつもりはない。余程のことがない限り、全力で投げ込めば相手はきちんと受け止めてくれた。教師になってからは、相手を見て手加減しつつ、しかし相手にとっては剛速球に見えるボールを投げる技術も覚えた。

難しいのは相手が近くにいるときだ。愚かな私は、ごく最近までそのことがわからなかった。若いときは感情にまかせて、近くにいる相手にも剛速球を投げることがあった。勢いよく飛んでくるボールに相手が怯えて飛び退く様子をみて、ざまあみろ、と哄笑することもあった。

しかしボールは、言葉は、受け止めてもらわないと生きたものにならない。威勢よく言葉を投げつけたからといって、相手が逃げまどうだけでは何の役にも立たない。

 

『学校は飯を喰うところ』の曽我貢誠さんのことを、私は何も知らない。

中学校の先生を長年務め、退職したばかりだ、ということは著者略歴に書いてある。でも、どんな人柄なのか、どんな顔でどんな体つきをして、どんな喋りかたをする人なのか、まるで知らない。

けれども、この詩集を読んではっきりわかることがある。曽我さんは近くにいる相手に向かって、ゆるいボールを投げる技術に長けた人だ。相手が受け止めやすいようなボールを工夫して投げてくる人だ。この詩集は、中学生という、大人でもあり子供である微妙な年齢の人間たちを長年相手にしてきた曽我さんが編んだ、近くにいる相手にどうやったら言葉を届かせることができるかという技術の集大成である。

遠くにいる大人、の私が読むと、これはゆるすぎるのでは、というボールもある。教室に貼ってある先生お手製の標語で、何が面白いんですかこれ、というのが私が中学生の頃もあったが、教師は教える生徒の知力精神力を見くびっているのではないか、と思うような「力の抜けた」言葉も並んでいたりする(もっとも、老獪な教師というのは、わざと力の抜けたボールを一度投げておいて、生徒がわっと囃し立てるのを待ち構え、それからあらためて速球を投げ込む、ということをするから、第四部「学校一言集」にある「昼食」とか「タバコ」は、そういう「捨て玉」なのかもしれない。でもそれは現場ではじめて生きるテクニックで、読んでいるときはそんなへなちょこなボールに唖然としてしまう)。

反対に、大人でも受け止めるとずしりと手応えがあるような言葉もある。私が好きなのは「劣等感」。

オレは頭が悪い
だからあいつに勉強はかなわない

あいつはオレより走るのは速い
なぜって運動神経が違うから

オレは歌うのはてんでダメだ
あいつのセンスにはかなわない

そう言いながら
実は自分の身を守っている

後で困らないように
始めにいい訳をしているのだ

人間には二種類しかない
本気にやる人間と、半端にやる人間

本当に
だめかどうかはやってみればよい

たとえあいつに勝てなくても
昨日の自分には勝てるはずだ

この程度の人生訓なら今時ブログやツィッターでも読めるよ、という冷笑的な見方もできるかもしれない。しかしそうは言いながらも、真実を穿った言葉に大人でも一瞬ドキリとするし、劣等感のただ中にいる中学生がこの詩を読んだら、まさに胸元を剛速球で射貫かれたような衝撃を覚えるだろう。

スローに見えて、手元にくると「伸びる」ボールもある。「友だち」では、「新友」「親友」「真友」という駄洒落からはじまる三連のあとに、こう続く。

大事なことを忘れました
もし、うまくいかなかったら
いつでも離れていいのです
もし、友だちができなかったら
それはそれでいいのです

私だって、つきあっている友だちは
ほとんど学校を出てからの友だちです

クラスには「新友とか真友ってなんだよ先生。変だよそれ」と迫る生意気盛りの生徒もいるだろう。だが最後の二連の「転調」にはそんな生徒も含め、みな「あれっ」と驚くはずだ。驚いている間に、その言葉はいつの間にか自分の胸元にすぽっと収まっている。腑に落ちる。そういう魔法のような投球術を曽我さんは見せてくれる。

そして最後に「合格発表、その後」のような、実在の生徒をモデルにしたと思われる詩群。実際の体験だけが持つ重みを伝えるこれらの詩は、いわばすぐそばに立っている曽我さんが「はい、これ」と手渡ししてくれるようなボールだ。ボールを「遠くに投げる」「相手に受け止めてもらう」ことにつきまとう一切のテクニックを排して、ただ真実の言葉だけを「手渡す」。なぜならば曽我さんはこの言葉を伝えるときに、相手が近くまで寄りそっているのを知っているからだ。勢いをつけて投げ込まなくても、相手の手のひらにそっと載せるだけで、ボールの重みが伝わることを知っているからだ。

「テクニック」であるにせよないにせよ、曽我さんはどうやったらボールを受け止めてもらえるかをよく知っている。剛速球を投げ込むことだけが、ボールの投げかたではないことを教えてくれる。この詩集を読むことは、曽我さんが教師として生きてきたあいだずっと開発してきたその言葉の届かせ方を実地に学ぶことでもある。そう思った。

『トンボの眼玉』第八号(二〇一四年七月)

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