ずしりと重い芸術家小説:前田司郎『濡れた太陽 高校演劇の話』

デビュー以来、前田司郎という人はその圧倒的な才能の上に胡座をかいているなあ、と思っていた。『濡れた太陽』はそんな私の思い込みをあっさりと打破してくれた。

前田が主宰する劇団「五反田団」の演劇はよく「脱力系」と言われる。書く小説も『ガムの起源~お姉さんとコロンタン』とか『恋愛の解体と北区の滅亡』とかふざけた題名のものばかりだ。だけど中身はそうでもない。設定はSFチックで、タチの悪い冗談のようなものが多いけれど、それにくだらないギャグもてんこ盛りなんだけど、妙にリアルな心情が描かれていて胸に迫ることがある。自意識過剰なだけと思っていた登場人物が、怖いほど透徹した意識の持ち主であることが判明して虚を突かれることがある。太宰治のように、へらへら笑いながら人の喉元に合口を突きつけるような不気味さや恐ろしさを前田司郎は持っている。

でも、これまでの前田司郎の作品はそれだけで終わることも多かった。確かに合口を突きつけられた瞬間ははっとする。顔色が変わる。だけど、前田は読者や観客に突きつけた合口を次の瞬間、すっと引いてしまうのだ。「冗談、冗談」とか何とか言って。こちらがビビッているのを見るだけで満足して、前田はそのまま歩き去ってしまう。ああびっくりした、とはその場では思うけれど、喉元過ぎれば何とやらで、私たちはその衝撃を忘れてしまう。出会った瞬間だけでなく、ずしりと重い感触を後々まで残す、ということは余りなかった。

それは前田が、自分の才能を当然視し、かつ、軽く見ていたからだ。「天才なんてそう珍しいものじゃない。実は三百人に一人くらいはいるのだと思う。その三百人に一人のうち自分の才能に適した行動をとる者がまあ百人、さらに、その百人のうち世間の目に触れるのは十人に一人とか」(下巻112頁)と『濡れた太陽』の語り手は主人公相原太陽の才能について説明する。高校に入学したばかりの太陽がはじめて書いた戯曲「犬は去ぬ」は抜群に面白く、彼が所属する御屋敷山高校演劇部の同級生はおろか先輩たちにも大受けするし、御屋敷山高校が演劇コンクールの地区大会で敗退したあとも、太陽は自分の戯曲が面白かったという評価を変えない。それどころか、「でも、僕は、ちょっと、多分、本当のことを、本当のことが判りました。結局、自分を評価できるのは自分だけなんだと思います」(下巻349頁)とみなに向かって宣言する。「自伝的(?)高校演劇部小説」という中途半端なオビの惹句がなくても太陽が前田の自画像であることはまるわかりなので(作品内で相当部分が台詞として引用される「犬は去ぬ」は、前田が高校一年生のときに実際に書いた戯曲だという)、この認識は前田が自分の才能について抱いているものであることは言うまでもない。自分に才能があることを疑わず、それでいてその才能はそれほど特別なものではない、と思っている芸術家は大抵才能を安売りする。売り渋らなくても自分の才能は枯渇しない、しないようにうまく自分の才能を制御できるコツを掴んでいる、と思っているからだ。

前田の書く小説の手応えがこれまで今ひとつだった理由はしかし、もう一つあったような気がする。演劇というマイナーな芸術を愛し深く関わっている自分を前田が小説の中でどう表現してよいかわからず、結果的に作品の中で自分を十分出さずに誤魔化していたことだ。『逆に十四歳』で演劇をやろうと老人の主人公に持ちかけ、オーディションを企画しておきながら「こんな、大勢の人の怨念を背負わなくきゃいけないものだっけ?」(85頁)と言って逃げ出す旧友白田と主人公の言動は、演劇に対する両面価値的な感情を作者が抱いていることをよく示していた。

ところが『濡れた太陽』では「演劇部はダサすぎた。演劇という響きがダサいのだ」(上巻254頁)と考える渡井も結局演劇部に入り、みんなで演劇を作り始める。前田はここに至り、演劇が大好きで演劇のことばかり考えているダサい自分のことを主人公に仕立て、自分の思いの丈を思い切りぶつけることに取り組んだのだ。

それができたのは、一つには「教育」という目標があったからだ。コミュニケーション教育の一環としてプロの若手演出家を招いて一緒に作品作りを行っている福島県立いわき総合高等学校での経験がこの作品のもとになっている。『濡れた太陽』は小説と銘打っておきながら、戯曲のように役名と台詞が書かれるだけで地の文がない会話が所々挿入され、スタニスラフスキー『俳優の仕事』と見紛うばかりの具体的な状況が与えられたうえでの演劇論が開陳される。「芝居するってことは、意識的なことのように見えて、それだけではない。…潜在意識がコントロールしている領域は、潜在意識に操縦させるべきなのだ」(下巻8頁)などはそのままスタニスラフスキーだが、「喜怒哀楽なんて伝えて何になるんですか?」(上巻242頁)のように平田オリザ以降の現代口語演劇の主流となっている考えを開陳するところもある。

かつて指導した高校生を念頭に置きながら、自分が考える演劇とは何かということを読者に伝えることに作者が腐心したゆえに、『濡れた太陽』にはこれまでの前田作品にはない「重み」が加わった。四六時中演劇のことばかり考えるダサい自分をうまく隠して才能だけで佳品をすらすらと書き飛ばしてきた作者が、本当に自分の書きたかったことを書くためには、高校生のためにという名目が必要だったのは興味深い。それは前田司郎の裡に潜む本質的な他者性と関わっているからだ。だがその詳細を論じるには紙面が足りない。これだけは確認しておきたい。高校生のための演劇入門であるとともに、『濡れた太陽』はジョイス『若き芸術家の肖像』のような、芸術家小説であることを。

『文學界』第66巻第8号(2012年7月6日)

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