ものみな歌でおわるーアメリカのポストドラマ演劇の誕生に関する一考察

 二〇一二年六月静岡芸術劇場で上演されたネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ『ライフ・アンド・タイムズ』は、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』(一九七六)の中の自閉症の詩人クリストファー・ノウルズの作品や、ガートルード・スタイン台本、ヴァージル・トンプソン作曲のオペラ『三幕の四人の聖人』(一九二八)と同様、散文で書かれているテキストを使いながらも、観客の身体に働きかけてその時間感覚に変容をもたらす音楽劇の傑作だった。散文の台詞をメロディにのせて歌うだけで「ミュージカル」と称する見かけ上の無造作さとは裏腹に、『ライフ・アンド・タイムズ』は、ミュージカルという形式が本来持っている演劇的可能性を利用し尽くし、アメリカにおけるポストドラマ演劇の発展の方向性を示していた。

 そもそも、西洋においても戯曲の言葉は長いこと韻文だった。韻文では語順は変更され、省略が起こり、言葉の多義性が強調される。かつて舞台の時間はこのような韻文の特性を反映して、自在に伸縮し、複数に分裂し、ときには円環を描いて回帰していた。だが十九世紀末に近代劇が誕生すると、西洋における詩劇の伝統は途絶し、定められた語順のとおり各構成要素を落とさずに話していくことで意味が生まれる散文が戯曲の言葉として採用された。近代劇は視覚的なリアリズムを重んじ、日常生活の細部を舞台に忠実に再現することからはじまったとよく言われるが、時間の「リアリズム」、つまり、あらかじめ決定されている結末に向かって直線的に流れるという、日常生活で私たちが経験する(ことになっている)時間を舞台に持ち込んだことも忘れてはならない。その結果、因果関係によって完全に支配された筋と、登場人物の心理の連続性(=性格の首尾一貫性)が極端に強調された、息苦しいまでに緻密な「全体性」を備えた構築物が演劇である、ということになった。
 ポストドラマ演劇とは、このような時間のリアリズムの桎梏から逃れるための試みの総体のことだと私は考えている。ハンス=ティース・レーマンはテキストと身体という古典的な二項対立を導入して説明しているようにも見えるが、ポスト構造主義以降の知見によれば身体もまた可読性をもった構造化されたテキストにすぎないのだから、身体の演劇がポストドラマ演劇だと主張するのは単純すぎる。「ポストドラマ演劇においては、理性的な_^言葉【ロゴス】^_よりも呼吸やリズムといった身体の肉体的現存の現在が重視される」(『ポストドラマ演劇』同学社、一九四頁)とレーマンが書くとき、単線的ではない時間構造を舞台に持ち込む媒体として身体が呼び込まれていることに注意したい。身体とは「読む」ことは可能でも、読もうとするたびに別の意味を生成するので一貫性を保持しにくいゆえに、ドラマ=「はじめ→中→終わり」という全体性に抵抗する存在である。ポストドラマ演劇は、俳優の呼吸やリズムによって作り出される「固有の時間体験」(同書二二二頁)を観客に味あわせ、散文の統語構造が要請する単線的で均質な時間体験と拮抗させるための戦略なのだ。
 ということは、俳優の身体を介在させなくてもドラマの全体性を解体し、回帰し分裂し伸縮する時間を舞台に表象させることはできるのだ。その際のもう一つの有力な手段は音楽である。ワーグナーの楽劇のような、音楽の構築性を利用して舞台に全体性を賦与するものはのぞき、大抵の音楽劇では、非連続的に用いられる音楽が観客の時間感覚を切断し、分裂させる。舞台上で演じられている散文のドラマが単線的な時間を表象していたとしても、導入される音楽が象徴的に担う永遠性・普遍性は、「今・ここ」という時間を相対化し宙づりにする。
 この意味で、アメリカン・ミュージカルは、ポストドラマ演劇が誕生する前からポストドラマ演劇だった。西ヨーロッパ各国の演劇に比べるとアメリカ演劇はリアリズムに偏重している、という比較演劇論的把握は、その反対物としてのミュージカルの存在に言及してはじめて正鵠を射たものになる。むしろミュージカルが「拡散する時間」を存分に表象するからこそ、アメリカのストレート・プレイは日常生活の散文的リズムに傾注するしかなかったのだ。そして『ライフ・アンド・タイムズ』に先行する、スタインやウィルソンの作品において観客の持っている日常の時間意識が解体されるのは、アメリカン・ミュージカルという壮大な実験場での試行錯誤があったからこそなのだ。
 『ライフ・アンド・タイムズ』は、構成・演出を担当するパヴォル・リシュカとケリー・コッパーが、「あなたのライフストーリーを聞かせてもらえる?」と電話で友人のクリスティン・ウォラルに問いかけたあと、延べ十六時間にわたって答えた彼女の話をそのまま再現するというプロジェクトだ。今回上演されたエピソード1では、彼女が生まれてから八歳までのことを二時間かけて語った内容を、三時間の「ミュージカル」に仕立てている。語られた言葉は一言一句残さずに再現されるものの、振付がつき、メロディにのせて語られるので、差し引き一時間の長さ分「間延び」し、「間抜け」になる。「間隙」を埋めることになる音楽は、バロックのオラトリオからR&Bミュージカルまで、西洋音楽劇の歴史から融通無碍に借用される。とはいえ、ウクレレ、バンジョー、ギター、ピアノ、ハモンドオルガン、鉄琴、ピアニカ、フルート、オーボエ、ソーバイオリンなど多種多様な楽器を三人の演奏者が目まぐるしく持ち替えて演奏するという珍妙な編成だから、「本格的」な音楽劇の音楽には聞こえない。ウクレレやバンジョー、オーボエなどの「間の抜けた」音色と相まって、この作品が音楽劇のパスティーシュであることを自ら明らかにする。
 つまり「間隙」は残っているので、日常生活の時間に比べて間延びした舞台上の時間に退屈してしまう観客もいるかもしれない。それでも、英語を聞き慣れている人々は、俳優たちのナンバーを聞くと、もっと早いテンポで話される実際の会話が二重写しになってくる体験をする。”and the like” “and the stuff” のような、冗長な会話の口ぶりがそのまま再現されているのをきっかけにして、一人の女性が電話で淡々と、しかし自分の過去を語るときにありがちな一種取り憑かれた調子でもって、話している口調がまざまざと蘇ってくる。
 時間はすでにここで二重になっているわけだが、つぎに観客は、そもそもこの二時間の話は、ウォラルの八年間の人生を圧縮したものだということに気づく。正確に言えば、あらかじめ作品紹介を読んできてそのことを知っていたはずなのに、「つぎつぎに、粒が粒に積み重なって、ある日、突然、堆積に、小さな堆積に、どうしようもない堆積になる」という『勝負の終わり』のクロブの台詞よろしく、八年間という時間の「重み」が突如意識される。
 九〇年代のアメリカでは、ソロ・パフォーマンス・アーティストたちが自分たちのライフ・ヒストリーを語っていた。彼(女)らが語る自分史を聞いていて私が耐えがたかったのは、性や暴力、死といった「リアル」なものとの邂逅、イノセンスの喪失といった陳腐でお定まりの物語が繰り返されるからだけではなく、彼(女)たちが無意識のうちに前提としていた語りの直線的な時間構造が、「私が私であること」という自己同一性を担保するものとして当然視されていたからだ(それを埴谷雄高は「自同律の不快」と言ったのではなかったか)。だが『ライフ・アンド・タイムズ』では、ライフ・ヒストリーが統一された自己という幻想を作り上げる装置として用いられる可能性は周到に排除されている。まず、ウォラルの人生は複数の俳優によって語られる。しかも、僅かに残っている線形性も歌や振付によって切断される。振付は視覚に訴えかけるゆえに、しばしば首尾一貫した「意味」を俳優に貼り付けてしまうのだが(「アステアの優雅で華麗な足さばき」といった具合に)、『ライフ・アンド・タイムズ』では「プロンプター」が毎回異なる振付が記された九枚のカードをシャッフルして俳優たちに提示するので、それが起きない。Life and Times という語句は本来The Life and Times of Kristin Worrall(クリスティン・ウォラルの人生とその時代)のように用いるのだが、of以下を省略することは、クリスティン・ウォラルという固有名が作品から消去されることに対応している。
 そんなわけで、ウォラルが八年間生きてきたことの「重み」は当初感じられない。だが音楽や振付によって分断され、複数の俳優の存在によって分裂させられた彼女の生きてきた時間は、観客の意識のなかで次第に凝集し、一つの流れを作り始める。ふとしたきっかけで幼い子供の言動に一貫した「性格」を見出して驚くように、自らの意識の中で複数の「ウォラル」が一つの像を結ぶようになると、観客はその存在を身近に感じるようになる。ソロ・パフォーマンス・アーティストが「私」という神話を押しつけてくるときの不快さと対極にあるこの経験は、八年間—二時間—三時間という長さの異なる三つの時間が重ね合わされて舞台に立ち上がってくるという感覚を作り出す。日常的な時間感覚を狂わされるという意味で混乱であるとともに、単線的時間の桎梏から逃れるという意味で解放であるようなこの知覚こそ、私たちが演劇に求めてきたものだった。
 近代劇が日常生活の忠実な再現をめざすために韻文と手を切ったことで失った演劇としての基本的機能を、アメリカン・ミュージカルは日常会話とナンバーを接続させるという手法で維持してきた。全ての台詞が歌われるという意味では『ライフ・アンド・タイムズ』はいわゆる「アメリカン・ミュージカル」とは異なる。だが韻文を使わず音楽によって観客の時間感覚を変容させるという手法を見事に使いこなせるのは、アメリカにミュージカルの伝統が根づいているからだ。ポストドラマ演劇が多様な展開を示すなか、アメリカ独自の展開として『ライフ・アンド・タイムズ』が出てきたことは興味深いし、今後のネイチャー・シアター・オブ・オクラホマの活動も引き続き注目したい。

 

『シアターアーツ』第52号(2012年秋)

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