『遠い音』:良質のヤングアダルト文学

 うちの近所の市立図書館には、ヤングアダルト(YA)コーナーなる一角がある。そこにあるのは、もともと少年少女向けに企画されたシリーズ、すなわち、岩波ジュニア新書や集英社コバルト文庫の類だけではない。『いま、会いにゆきます』や『電車男』といったテレビや映画で取り上げられて話題になった本から、私たちが子供の時分からある、子供向けとは思えないほど大部の福音館古典童話シリーズまで、さまざまな分野やジャンルの本が所狭しと並べられている。十代の若者になんとか本を読ませたいと願う図書館員の熱意が感じられるセレクションなのであるが、同じ書棚に田口ランディや舞城王太郎、はたまたま村上龍までが並んでいるのを見ると首をかしげたくなる。いや、こういうのは「大人の本」とされているから背伸びしたいガキは読みたくなるんで、はじめからあなたたち向けですよ、と出されても興ざめなんじゃないですか…。

 これはしかし、日本においてYAというカテゴリがいかに実体のないものであるか、ということである。このカテゴリの誕生の地である北米では事情が大分異なる。全米にチェーン展開する巨大書店バーンズ&ノーブルのYAコーナーにでも行くと一目瞭然だが、英語圏文学においてYAというカテゴリは一つの市場であり、専門の書評家もいれば、研究書も出版されている。

 では英語圏のようにYAというカテゴリが確立しているのがのぞましいのかというと、一概にそうとも言えない。それはこういうことだ。YA文学の大半が、家族との葛藤、友人や恋人との軋轢、あるいは職業選択や趣味の追求にまつわる困難さといった古典的教養小説の主題を現代風にアレンジしたうえでリアリズムの手法で語るものであることはたしかだが、なかにはもっと象徴的な言葉や物語を用いて、主人公が他者との邂逅を経験し、自らのアイデンティティを確立していく過程を綴った作品もあって、意外に多様である。だがどんなYA文学にも共通する特徴はあって、それは、読者に対して真っ直ぐ語りかけてくる、という点である。

 「大人向け」の小説では、自らの言葉が読者にそのまま届くと作者が信じて書いているものはほとんどない。それは読者に対するあからさまな不信の表明や嘲笑的な態度といった極端なかたちをとることもあれば、「語りの共同体」に読者を誘い込むためのもっと洗練された戦略上の工夫であることもある。だがそのような仕掛けが表面化してこないような作品であっても、読んでいて他者との間にコミュニケーションが成立することについての根本的な疑念が伝わってこないものは、どういうわけかすぐれた作品だとは見なされない。作品の核に隠された、言語による自己疎外の感覚を共有することができるかどうかが「純文学」を理解できるかどうかの資格試験であるというかのように、この壁は厳然としてそびえ立っている。

 英語圏文学にYAというカテゴリが存在する裏側の事情には、語りというメタレベルでのコミュニケーション不全は子供たちに味合わせたくない、という大人たちの黙契があるように思われる。なるほど、物語のレベルでは登場人物たちはコミュニケーション不全によって悩み、同じようにコミュニケーション不全に苦しむ読者であるティーンエイジャーたちの共感を誘うことになる。しかしこうした物語では、遮断されていたコミュニケーションの回路は最終的には再び開かれるのが常であるし、たとえそうでないにせよ、作者の筆致はコミュニケーション不全の状況があるということは明確に伝わるようになっている。そこに、子供を安全な場所に「隔離」するという思想が働いていないとはいえまい。その意味では、むしろ日本のように、「純文学」もあれば鏡像段階での妄想を書き殴ったものもあるといった、てんでばらばらな状態をYAという緩いくくりで括ってしまうことにこそ、真の教育的効果があると言うべきではないか?

 前置きが長くなった。カナダ人女性作家フランシス・イタニの長編『遠い音』は、今述べたような意味で、きわめて良質なYA向けの作品である。簡潔で無駄をそぎ落とした文体からは、自分の語ることは読者に百パーセント届くはずだという堅い信念が伝わってくる。カバー折り返しに掲載されている写真の著者の眼は、見ているこちらの眼を射抜くかと思われるほど強い光を放っており、そこに表現されている真っ直ぐな想いはたしかに作品全体に充満している。屈折した「大人」には時として耐え難いほどの純粋さ。もちろん、それを欲している大人にとっては十分に楽しめるものではある。

 五歳の時猩紅熱で聴覚を失った少女グローリアが聾学校に通い、成人し、健常者の伴侶とめぐり逢い、幸せな日々をつかの間過ごすも、夫ジムは第一次世界大戦に出征してしまう、というこの作品の筋立ては、ある種のメロドラマを想像させるに十分なほど通俗的に聞こえるかもしれない。実際、帯には「静寂の大地カナダに感動がこだまする大河長篇」とある。だが抑えられた筆致は、グローリアやジムやその周囲の人々が、苛酷な運命に翻弄されつつ、いかに慎みを失わないでいられるか、という部分に焦点があてられており、大味なメロドラマとは対極の位置にある。たとえば、ジムは傷病兵としてたくさんの戦傷者を介護したりその最期を看取ったりするのであるが、その一人であるトミーが痛みをまぎらわそうと饒舌にしゃべり続けるのを聞くと苛立ちを感じる。

「おれにもわかっていることがひとつある」とトミーが言った。声がふいにか細く、弱々しくなっていた。

 だが、ジムはトミーに何がわかっているのか聞きたくはなかった。彼は叫びだしたかった。<やめろ! そんなふうに自分の苦痛についてしゃべるのはやめるんだ! すこしは慎みというものを知れ!>

 だが、考えてみれば—自分はまったく健康であり、こうして動いたり、食べたり、小便をしたり、糞をしたり、無傷の口と舌でしゃべったりしているのだから—それを考えてみれば、まさに残酷なほど慎みを知らないのは、自分のほうにちがいなかった。

 どんなに感情を揺さぶられるような体験をしても、決して叫んだり泣きわめいたりしないこと。他者と自己との境界をつねに意識して、人様の気持ちをあれこれと詮索しないかわりに、自分の心に他人がむやみやたらに立ち入ることを拒絶すること。こうした抑制の美学とでもいうべきものがここにはある。だが、作品に緊張感を与えているのは、この抑制の美学が外的状況によってつねに脅かされているという構図である。グローリアの聴覚が失われたことからはじまって、ジムが激戦地であるベルギーやフランスの戦場を転々とする間に見聞きする阿鼻叫喚の地獄絵図まで、感情を暴発させても当然という場面が繰り返し描かれる。しかし主人公たちは冷静に状況を理解しようと努めるのだ。

 その意味で、原題の Deafening という題名はとてもうまい。「耳をつんざくような」というこの形容詞は、撞着語法で deafening silence のようにも用いる。つまり、この題名は「耳をつんざくような」外界の騒音(聾であることを過度に気にする無理解な隣人や戦場の騒音といった)と表すと同時に、そうした外界に対して直接の反応を示すことを拒絶する「深い沈黙」をも表しているのだ。作者にとって 「深い沈黙」とは、その場で起きていることを理解するために、反応が一瞬止まることの比喩になっている。手話を解さない健常者たちの唇の動きを読み取って何を言っているかを理解するためにグローリアが必要とする数秒の「遅れ」。しかしこの「遅れ」は、ジムが戦場で消費される圧倒的な物量を目の前にして感じる理解の遅れとして体験されることによって、より普遍的なものになる。

むかし—あの青い毛布の上に坐っていたとき—きみが話してくれたことがある。きみにとって理解が遅れてやってくることがあるということを。いま、ぼくはそれがもっとわかるような気がしている。実際に起こっていることと理解していることのギャップがわかるような気がする。そこにあるものとそこにはないもの。たくさんのものが入ってこようとし、たくさんのものが侵入してこようとする。音はぼくたちを圧倒する。あらゆる思考を停止させる。猛毒のガスみたいに体内に滲みこんで、すべてに浸透し、あらゆる裂け目や割れ目を満たそうとする。

理解することとは、このように遅れて反応することであり、同時に「物自体」が自らの裡に入り込んでくることを防ぐことでもある。耳をつんざくような騒音に満ちあふれる世界にあって、抑制の美学を貫くためには、deafening silence が必要なのだ。作者がもっとも伝えたいメッセージは、こうして作品の細部だけでなく、題名にも表れることとなる。

 その一方で、この作品の幕切れにいささか物足りなさを感じるのはいたしかたないだろう。グローリアの周囲に次々に死が訪れる中、ジムが無事に帰国するという結末は、当然予想されるものであるとは言え、もっと感動的に盛り上がってもいいはずだ。しかし作者にとって、困難な状況下で禁欲の美学をいかに貫くか、ということのほうが、二人の再会よりも重要だった、ということは容易に想像がつく。あくまでも予定調和的に物語は終わるが、作品を読み進めていくうちに感じとられる作者の強烈な想いはいつまでも読者の心を捉えてはなさない。

 語り手の自己韜晦の身振りがその個性を見事に消し去り、そのかわりに物語が前景化する、というのが「大人向けの」小説であるとしたら、この作品は一貫性を持った物語を語ることに専念しようとする語り手の姿勢がかえって語り手の存在を大きく浮かび上がらせ、物語を後ろに追いやってしまう、YA文学の一つの極を示していると言えるだろう。

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