『ガラテイア2.2』:人工知能SFの衣をかぶった青春小説

 『ガラテア2.2』は二〇〇〇年に翻訳されて話題になった『舞踏会へ向かう三人の農夫』の作者リチャード・パワーズの邦訳第二作である。訳者は柴田元幸氏から若島正氏へと変わった。今年さらに、みすず書房からは同じ若島氏の訳で『囚人のジレンマ』が刊行されることになっており、トマス・ピンチョンに続くアメリカ文学の旗手と言われることもあるパワーズの紹介ラッシュがしばらく続きそうである。

 さてこの小説の「売り」は、人工知能がどこまで人間の知性に近づけるか、というSFの古典的主題に、文学的味つけをしたというところにあるようだ。ガラテイアとは、ギリシア神話でピグマリオンが恋に落ちる自作の彫刻の名前で、この物語の中では認知神経学者レンツが開発し、語り手である「僕」、小説家リチャード・パワーズが訓練をするプログラム、「ヘレン」の別名である。作者と同じ名前を持つこの語り手が、恋人Cと別れオランダからアメリカに戻ってくるところから物語ははじまる。彼は母校の大学の客員研究員としての職を得て、巨大な先端科学研究所にオフィスを与えられたのだ。ある晩漏れ聞こえてくるモーツァルトのクラリネット協奏曲に誘われてレンツの研究室に迷い込んだ語り手は、このエキセントリックな老科学者とその同僚たちの賭けに巻き込まれ、コンピューターに英文学の修士総合試験の試験を解かせて人間と変わらないような答案を書かせられるということを証明する羽目になる。プラグラムは何度かバージョンアップされて、ついには人間の意識に酷似した機能をそなえたヘレンが誕生することになる。

 この基本的な筋立てに説得力を持たせるために、人工知能についての膨大な知識が披露されるわけだが、それはいわば作者によるくだくだしいエクスキューズであって、この小説のいちばんの面白味となっているわけではない。『舞踏会に向かう三人の農夫』でもそうだったが、理系に進んだ後「文転」して小説家になったパワーズによる情報の提示のしかたは、いかにもアメリカで人文科学系の訓練を受けた人間のもの、という感じがする。そつなく満遍なく行われているのだが、客観的叙述を心がけるあまり、時として無味乾燥のきらいを免れないリサーチ。調べた人間の息づかいや感情といったものがほとんど伝わってこないために、書かれた事実に読者が引き込まれることがあまりなく、淡々と報告書を読んでいるような気持ちになってしまうような説明。

 それはたとえば、ピンチョンの衒学趣味とははっきりと異なるものである。ピンチョンの小説で与えられる情報は多かれ少なかれ「謎」の解明という側面を持っている。たとえ比較的よく知られている事実であっても、ピンチョンの筆致にかかるとあたかも今ここではじめて明かされたかのような気がしてしまう。パワーズが読者にもたらす情報は、よく言えば、もっと開かれている。読者と知識を共有すること自体が作品の駆動力となるような構成といえばよいだろうか。だが悪く言えば、ある種の迫力に欠ける、ということである。読者は心のどこかで、作者に手綱をとられて引きずり回されたい、と思っているものだから。

 だが『ガラテア2.2』はパワーズの他の小説と同様、多面的な構成を持っている。たとえばこれは、よくできた大学内幕物小説(デビッド・ロッジの『交換教授』や『文学部唯野教授』などが同じジャンルとして挙げられるだろう)としても読めるだろう。大学教師がいかに変人の集まりであるか、あるいは学問という名の下に強制される苦行に、学生がいかにマゾヒスティックに耐えているか、ということについて面白おかしく語られる。しかしこれもまた、この小説を読むおまけの楽しみに過ぎない。

 『ガラテイア2.2』の本当の魅力は、語り手の語る過去のほろ苦い追想にある。もともとパワーズは、永遠に失われて帰ってこないものへの哀惜を小説の主題に据えることが多かった。モーツァルトのクラリネット協奏曲から導かれるこの小説の世界は、はじめから喪失の感覚に満ちている。書き出しの二行目から「僕は三十五歳と別れてしまった」(原文を直訳すれば「自分の三十五番目の年を失った」)と記され、レンツたちとの出会いと並行して、恋人Cとの十年間余りの生活が描かれる。学生同士の貧しくも楽しい暮らしは、移民であった両親を追ってCがオランダに移住するのをきっかけに異国の地で新たな展開を見せるが、やがて「僕」が有名作家になったことで二人の仲がぎくしゃくしていき、破綻が訪れる。そのエピソードと前後して、「僕」が文学の道を進むきっかけとなった恩師テイラーの薫陶と、癌によるその死、そして死の三日後にロバート・サーヴィスの詩集を送りつけてきた父親との永久の別れが語られる。

 何かが永遠に失われてしまっているという事実に傷つきつつも前向きに生きていこうとするのは「僕」だけではない。レンツもまた、脳梗塞で惚けてしまった妻がおり、その同僚で「僕」に何かと世話を焼いてくれるダイアナも、知的障害児を抱えて夫に出て行かれてしまっている。彼らもまた、この世には完璧なものは存在せず、ただ「思い」だけがかつて完璧であった世界を蘇らせてくれる、というパワーズの小説を貫く倫理観を体現している人物なのだ。だがこの小説がいっそう切なくやるせないのは、物語が進むにつれて、喪失の感覚が世界にいっそう浸透していくところにある。過去に収まっていることに飽き足らないというかのように、喪失の体験は現在進行形で起こり始めるのだ。「僕」は大学院生Aに恋をするが、報われぬまま終わる。そしてヘレンもまた…。

 『走れ、ウサギ』をはじめとして、輝かんばかりの青春を過ごした人間が砂を噛むような思いで不毛な現在の生に耐えている、という筋立てを多用したジョン・アップダイクも、この小説を読んで涙したという。アップダイクよりも「倫理」的なパワーズの登場人物たちは、「今」をもう少し真面目に生きようとしている。だが、だからといってそれは過去の喪失の痛みがそれだけ少ないということではない。終わり近くで「僕」はこう言う。「僕の物語の中に出てくるものは、なにも去ったりはしない」。 つまり、失われたものはいつまでも自分たちのものであり続けると宣言しているという点で、これは第一級の青春小説なのだ。逆説めくが、青春のただ中を生きている人間たちのことを書いてもそれが青春小説の傑作になることはめったにない。生きることに夢中になっている人間の心理をリアルタイムに描いてもさして面白くもならないのが常なのは、登場人物が自らを省みてうじうじ考えるというプロセスが欠けているからだろう。「正しい」青春小説とは、自分の青春が終わってしまったことに気づいた語り手が、自分の生きてきた軌跡を幾分センチメンタルに振り返るものではないか。失われた青春についての美化された言説を生産する小説としての青春小説。アメリカの現代小説には、そんな青春小説の傑作がいくつもあった。『偉大なるギャッツビー』にはじまって『ライ麦畑でつかまえて』『さよなら、コロンバス』『走れ、ウサギ』等々、枚挙にいとまがない。パワーズの『ガラテイア2.2』もまた、こうしたアメリカ青春小説のキャノンとなるだろう。

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