『世界のすべての七月』:読者に既視感を与える小説

 『カチアートを追跡して』(一九七八)の作家、ティム・オブライエンの最新刊である『世界のすべての七月』(二〇〇二)を村上春樹が訳した。村上訳オブライエン作品としては『ニュークリア・エイジ』(一九八五)『本当の戦争の話をしよう』(一九九〇)に続いて三冊目ということになる。全作品を翻訳したレイモンド・カーヴァーのようにとはいかないまでも、オブライエンに対する村上の入れ込みようが伺われようというものだ。ところが村上の「訳者あとがき」は幾分言い訳がましく、「世間における一般的な評価とはべつに、個人的になんとなく気になる、あるいは気になってしょうがない」作家としてオブライエンの名前を挙げるところからはじまり、「オブライエンの作家としての今日的な値打ちみたいなものを、適切に言語化することが僕にはできない」と告白し、「傾向的に『下手さが目立つ小説をつい書いてしまう作家』」であるけれど「下手っぴいさに思えてしまうところが、オブライエンの小説家の徳のようなもの」だと、訳がわかるようなわからないような説明に終始している。私はその率直さに感心もしたが、その一方で、こんな気弱な書きかたでは、書店で手にとって買おうか買うまいか悩んでいるときの助けにならないのではないかと余計な心配もしてしまった。

 だが村上が気弱になるのもある意味では無理はないのかもしれない。英文で書かれたあちこちの書評を読む限り、よいことはあまり言っていない。『世界のすべての七月』はもともと『エスクワイア』『ニューヨーカー』といった白人中産階級御用達雑誌のために書かれたいくつかの短篇を核に発展した連作短篇集であり、一九六九年にダートン・ホール大学を卒業したベビー・ブーマーたちが、二〇〇〇年七月七日に大学体育館で開かれた同窓会に集まった、という設定のもと、五十を越えて先の見えた人生にほぼ幻滅しながらも、まだ若かりし頃の夢と希望を棄てきれずに人生を(少々自棄気味に)楽しもうとする現在の彼らについてのごく短いスケッチ風の描写と、三十一年前、世間知らずの理想家だった彼ら一人一人がこれまでいかなる人生を歩んできたかを語る短篇が交互に積み重ねられるという形式をとっている。若さと健康に取り憑かれた国アメリカにおいて老い衰えることの残酷さ、あるいは中年から老年にかけての生や性といった主題そのものが、現代アメリカ文学のみならずテレビや映画、演劇でしばしば扱われてきたものだし、平凡きわまりない登場人物たちの平凡ならざる人生が明らかにされる群像劇という形式はシャーウッド・アンダスンの『ワインズバーグ、オハイオ』以来使い古されてきた感がある。さらに、ある時代を支配する精神や風潮といったものに人々が流されていくさまを多少の感傷をこめて描き出す風俗小説は、『偉大なるギャッツビー』をはじめとするアメリカ小説お得意のジャンルだ。そこに公民権運動やヒッピーに代表される六〇年代の理想主義がヴェトナム戦争の敗北を経ていかに幻滅へと導かれるか、という大きな物語が加われば、(とりわけアメリカ人の読者にとって)「ありがち」だし「陳腐」だし「常套句と化している」という評価が出てくるのもうなずける。

 しかしおそらく、そのような評価は誤解の産物である。同じように失敗作という評価を受けた『ニュークリア・エイジ』について村上が行う「この小説が正当に理解されなかったのは、昨今のアメリカ人の本の読み方にいささかの問題があるからじゃないのか」という指摘は、『世界のすべての七月』についてもあてはまるかもしれない。しかしその一方でオブライエンもまた自分の資質を正しくつかんでいないからこそ、誤解を生むような作品を作り出してしまうのではないか、と言えるのではないだろうか。

 では一体オブライエンの資質とは何か。一言でいえば、読者に既視感を与える作品が書けることだ。どこかで見たような風景、どこかで聞いたような会話を紙上に作り出してみせる才能。それはリアリズムとは違う。マジックリアリズムといえば少し近くなるが、それでもぴったりとは言えない。実際の生活においてあるとき突如として既視感に襲われるように、オブライエンの小説を読んでいると、大体のところ現実味を帯びているが、どこかで夢のような頼りなさやはかなさを抱え込んでいる風景や会話が突然立ち上がってくる。体験したはずがないことなのに、なぜかよく知っている、懐かしいという強烈な感覚を抱いてしまう。『カチアートを追跡して』や『本当の戦争の話をしよう』が傑作であるゆえんは、ヴェトナム戦争という(とりわけ日本の読者にとって)遠い世界や時代の出来事がきわめてリアルに語られているからではない。『カチアートを追跡して』で言えば、脱走兵カチアートを追跡する小隊の一員ポール・バーリンが、目の前で次々と起きる不思議なことを受け入れていく感覚が、既視感を抱きつつもこれははじめて起きたことなのだと現実を追認する私たちの感覚に重なって、現実とも幻想ともつかぬバーリンの体験を追体験することになる、それが抜群の効果をもたらすからである。

 けれど『世界のすべての七月』では、オブライエンの作り出す既視感は間違った方向に受け取られてしまう可能性がある。これまでの作品と違って、馴染みのない世界や出来事を描いているはずなのに、なぜかすでに見聞きし知っているような気がする、という感覚が与えられるのではない。読者の多くにとってきわめて馴染みのある世界が描かれているゆえに、読者が得た既視感は、同じ題材を扱った小説やテレビや映画の記憶によるものだと誤解され、それゆえに「ありがち」で「陳腐」で「常套句と化している」ということになってしまうのだ。

 だがよく読めば(そしてこうした世界に比較的馴染みのない日本の読者にとってはそれほどの努力を要さなくても)この「なんだか懐かしい感じ」はこの作品の主題や形式やジャンルや物語が二番煎じ、三番煎じであるがゆえに得られるのではないことがわかる。二人の夫を持ち両方の家を往復するだけの生活に飽きたらず愛人を作るスプーク・スプネリや、ヴェトナム戦争で片脚を失って以来、ジョニー・エヴァー曹長という名前の男が夢の中に現れて未来を言い当てきたと思い込んでいるデイヴィッド・トッドをはじめとする登場人物たちは、現実に存在しているようでいて、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている。にもかかわらず、「こういう人間を自分はよく知っている」と読者が思い込むのは、オブライエンの筆致のせいなのだ。オブライエンは大学の同窓会に出たことはないそうだから、すべては想像力が作り出した幻であり、細部にはおかしなところもあるはずだ。それなのに、「この小説はどこかで語られた物語の焼き直しである」と評論家がかたく信じて疑わないのは、オブライエンが私たちの記憶を捏造するからである。

 この小説の読後感は言うまでもないだろう。捏造された記憶としての既視感がいつまでも私たちの脳裏に残って離れないように、この小説の登場人物が交わす会話や特徴を描いた地の文の中には、妙に生々しく感じられてしばらく意識に取り憑くものがある。この作品を読み終えてから数日して突然記憶の中にある一節が蘇ってきたりする。もちろんそれは『世界のすべての七月』が良質の小説であることの証左なのだ。

 訳文はわかりやすかったが、「気を楽にして、その素敵な髪を下ろしなさい」(三一〇頁)「全部壁に書いてあった」(四一七頁)のように、英語の慣用句を注なしで直訳しているところが数カ所あって気になった。英語の表現に慣れていない読者は戸惑うのではないだろうか。

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