反復衝動としてのパスティーシュと「同一化」の失敗——中原昌也『知的生き方教室』

「模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」。言わずとしれた小林秀雄「モオツァルト」の一節だ。戦後間もなく『創元』にこのエッセイを発表したとき、小林は「今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える」と大見得を切ってみせたけれど、以来七〇年近く経った現在では、テクスト論や大衆文化研究の進展もあずかって、天才の独創性なるものが幾多の他人の模倣や剽窃の上に成り立っているということは、当然視されている感がある。

一方、天才とは_¨真似せずにはいられない¨_才能だ、ということはそれほど多くの人に了解されているわけではない。小林はモーツァルトが努めて模倣に励んだように書いているし、事実そうだろうが、天才のなかには(あるいは天才の資質を持っている人間のなかには)意図せずして模倣してしまう人がいる。誰だってそうではないか? むしろ真似ばかりして独自のものを生み出せない人間は凡庸と言うのでは? そうではないのだ。天才とは模倣の対象を、オリジナルより上手に模倣してしまう人間のことだ。立川談志の「野ざらし」は、三代目春風亭柳好の「唄い調子」と呼ばれる独特の節を模倣するのだが、本家よりもっと面白い。もっとノっていて、もっと浮かれている。八五郎が、夜に女の幽霊が訪ねてくることを期待して、野ざらしのしゃれこうべを釣ろうとはしゃいでいる感じがよく出てる。

でも談志も柳朝を意識的に真似て演じたのでは? もちろん真似していることを談志はわかっている。だがその模倣の出発点には、自分の聞いてきた名人たちの芸を真似せずにはいられない、という談志の衝動のようなものがある。ウィリアム・バロウズばりの、古典落語の名作のカットアップ「落語チャンチャカチャン」もそうだ。談志が取り憑かれたかのような迫力で「道具屋」「火焔太鼓」「大工調べ」といった作品のさわりを一気に続けて喋るのを聞いていると、この人は落語の制度に取り憑かれているのだ、そして制度をこうやってできるだけ正確になぞってみせることで、制度に忠誠を誓い、そのことによって自己確認をしているのだ、ということがわかる。

アンナ・フロイトはそのメカニズムを「攻撃者との同一視」と名づけた。「攻撃者を擬人化し、その属性を潜取し、攻撃を模倣する」ことで不安から逃れようとする心の働きは子どもだけでなく大人にも見られるものだ。天才は、芸術の制度、伝統、歴史といったものがもたらす重圧感に恐怖を感じ、それを模倣するしかないと思い込む。それが天才が「真似せずにはいられない」理由だ。自分の存在を脅かされるほどの恐怖を感じているから、必死になって模倣する。だからその模倣は時として本物よりすぐれたものになる。

『知的生き方教室』に収録された短編群は、他人の言葉に取り憑かれ、恐怖から逃れるために他人の言葉を反復し、同一化をはかろうとする天才・中原昌也による、失敗した試みの集大成となっている。中原の努力が報われないのは、同一化に失敗するからだ。中原が他人の言葉を上手に模倣すればするほど、中原は中原自身の掛けがえのない言葉を模倣するに至るからだ。それはたとえばこんなふうに。

朝、出勤するなり横になって、まったく起き上がる様子のない同僚の小さなうめき声が、耳にこびりついて離れない。そして、自分のデスクの脇にビニールシートをかけられて横たわる、一向に誰のものだか判らない死体のようなものが、長らく置かれたままである。そして、間違いなくそこから漂う異臭。「彼らは人肉で生きのびた」『知的生き方教室』152

井伏鱒二『黒い雨』のような原爆文学、或いはもっと広く、戦争による死傷者を描く文学作品のパスティーシュとして、主人公山本三津子の勤める文芸誌編集部の情景を描く、というここでの趣向を、中原じしんはほとんど意識していないだろう。なぜなら第一に、この緊張感溢れる描写からは、自らの趣向を悦に入って眺める作者の精神的余裕は感じられないからだ。むしろ、かつて似たような描写を作者が読んだときに感じた衝撃=精神的外傷が執筆時点でも残っており、批評的距離がほぼゼロの状態でそれを反復しているかのような切実さが伝わってくる。第二にこの描写は、「退屈極まりない文芸誌の仕事」を「ぜんぜん好きでない」三津子がつかの間見る幻想ということになっており、趣向としての効果を読者にたいして十分アピールしないうちに終わってしまうからだ。彼女は「心身共に消耗する」自分の仕事を「生きるためには仕方がない」と考えることから第二次世界大戦での人肉食の経験に思いを馳せ、やがて『人肉食による類似療法的呪術』なる架空の書物からの引用が延々と続けられることになる。

ある言説を巧みに模倣し、しかし読者がそのことをはっきりと悟る前に放棄して次の言説の模倣に移る、という中原の筆の運びは、「落語チャンチャカチャン」にも似ている。そこで生じているのは、笑いではない。自分に取り憑いている制度から逃れようと悪魔祓いにも似た仰々しさで制度をなぞってみせる人間を見守る者たちの顔に浮かぶ、強ばった半笑いだ。他人事だからその必死さは滑稽に思えるが、だからといって笑い飛ばすにはあまりにも真剣に真似をしているようにみえる。「これわからない客には何もわからないからね。何やってるのかと」と談志は「落語チャンチャカチャン」の終わりで語るが、それは二重の意味で正しい。引用されている元ネタがわからないとわからないし、談志がカットアップして落語を語るその動機の核に恐怖があることがわからないとわからない。

中原作品も同じだ。引用元のテクストが何かと想像を働かせ、無数の引用の織物たる中原のテクストの背後に、他人の言葉を模倣しなくてはという強迫観念を読み取ること。天才が天才たるゆえんは、文学という制度に中原が恐怖を感じ、「攻撃者との同一視」をはかろうとして、自分を文学の制度に偽装しようとするところにあること。文学への呪詛、小説が書けないことの焦り、それでも生活のために書かなければならない自分の状況にたいする絶望、中原文学にお馴染みのモチーフはすべて、いかに中原が文学という制度に重圧感を人一倍感じているかの証左だ。それがわかれば、中原の繊細さを、そして真剣に「文学」を真似しようとして失敗するその滑稽さを、私たちは慈しみ愛でるようになるだろう。

『文學界』第69巻第1号(2015年1月)

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