『権現の踊り子』:インデアンカレー

 織田作之助『夫婦善哉』の中に登場するというのでその名を知られるようになった大阪名物に、自由軒のインデアンカレーがある。注文すると、皿に盛られたドライカレーの真ん中をくぼませて生卵を落としたものが運ばれ、特製ウスターソースをかけてぐちゃぐちゃに混ぜて食べるという代物であるが、町田康の小説は、このインデアンカレーによく似ている。本来別々に食するものが混ぜ合わせられて作り出される、何ともいえない味。本家本元のインドカレーとは似ても似つかぬ味だが、この味はまたそれとは別で、要するにこの味でしかない、と同義反復をすることで納得するしかないオリジナルな味。「西洋風」で「近代的」な料理のはずなのに、どこか日本的で前近代の匂いのする味。「下品だ」といって顔をしかめる人間もいるが、そのまずいんだかうまいんだかわからない味にやみつきになってしまう人間もいる。

 短編集『権現の踊り子』に収録された作品はどれもそんな複雑で一筋縄ではいかない味わいを持っている。たとえば「ふくみ笑い」を見てみよう。「好物のバナナを売ってもらえない」「スタジオミュージシャンの仕事が突然来なくなる」等々の不可解な迫害を受ける「俺」は相手のふくみ笑いに自分の知らない意味がこめられているのだと考え、これは単なる被害妄想でないと「クリアーで冷静な頭で」判断する。そのうちに「人間や犬に触れると表皮から体液を滲出させて腐らせてしまう」一尺ばかりの紐とも皺のある棊子麺ともつかぬ物体が無数に空中を飛んでくるようになり、捕虫網を振り回しては紐を捕りドラム缶で燃やす大男から、紐は現実に裂け目が生じて時間に入ったノイズだと教えられ、一緒に紐をとって焼くように頼まれるが、「俺」はふくみ笑いをする奴らを生命を賭して救うことが正しいことかどうかを男と議論する。

 『夢十夜』のように、非現実的だが奇妙にも一貫している夢の論理を忠実に記述しているようにも見えるこの作品は、しかしそれ以上のものを内包している。もちろん『夢十夜』に描かれる「夢」もまた作家夏目漱石が捉えた多面的な現実の反映であり、一意的な解釈を導くことを躊躇わせる類のものであるが、「ふくみ笑い」には、そうはいってもしょせんは個人の中で完結する夢の論理とは別の、上位の次元の物語が連結され、ごちゃまぜになっている。ドライカレーに生卵とウスターソースを混ぜ込んでいくのと同じ手口だ。何度も挿入される「べらんがめらんでソーダ水飲むン あきゃきゃ、あぱぱ、乳、踏んでおどろ」とはじまる意味不明の歌は、『楢山節考』の盆踊り歌を思い出させる。「ふくみ笑い」には、売れないミュージシャンの湯田典惇(ユダと読めることはここでは深く追求しない)に一年くらい借りていたギターを「俺」が返しに行くという物語が根本にあるのだが、深沢七郎が大のギター好きで、リサイタルを開いたりするほどの腕前であったことを知る読者にとって、町田が深沢に負っていたもの(とは、ある種の文学的な「やつし」の態度、目線の低さだろう)を返したいと思っている、というようにもとれる。最後に「俺」が遭遇する「すげえ虚無」は『天人五衰』の幕切れを思い起こさずにいられない、するとデビュー当時深沢を高く評価した三島由紀夫という連想がさらに働いて、読者は一つの文学史的連環がこの作品に実現されているのを見ることになる。この三者をつなぐのは、本来自閉的な日本文学の空間に他者の表象をどのように滑り込ませるかという問題意識だ。

 もちろん、「口では友達のようなことを言っておきながら、しょせん仕事のない奴だ、と内心ではなめていた」と道すがら湯田に対する自らの態度を反省する「俺」が、理不尽な迫害を次々と蒙るという構図そのものに、今や有名作家となった自分に抱く町田自身の罪悪感や無名時代からの友人たちへの奇妙な申し訳のなさが投影されている、と考えることは可能である。二十年前、若くて貧乏だった頃によくつるんで遊んでいた「鶴」が病院で死にかけていると聞いて見舞いに行こうとするがたどり着けないという「鶴の壺」や、お金を使うまいとさまざまな生活の工夫をこらすのだが、肝心なところで抜けているので失敗ばかりし、最後には感電死してしまう減さんを語った「工夫の減さん」といった作品もまた、「人間の屑」から出世してしまった自分への気恥ずかしさ、ずっと「人間の屑」でしかいられなかった友人への二律背反的な思いが表現されていると考えてもあながち間違いではあるまい。

 しかしこうした、いわば独り善がりの理屈、個人が見る夢の中でしか許されない独我論的論理を超えていこうとするのが町田康の倫理というものである。「すまない」と考えることこそが思い上がりであるという思考回路が生み出すのは、夢の論理を包含しながらそれを社会的な意識の在りかたへと作り変えていくようなヴァイブレーションだ。「ふくみ笑い」ではそれが先行する文学者たちへの関係意識を描き出しているように見えた。「鶴の壺」でも、鶴が入院しているのが神殿奉祝病院とあり、一種の天皇論となっていることがわかる。そして表題作「権現の踊り子」では「伊豆の踊子」に体現されている(とされる)「美しい日本の私」的感性がグロテスクなまでにパロディにされる。権現市があると聞いて行ってみたはいいが、祭りはまだはじまっておらず、語り手の「俺」は「圧倒的な敗北感」が充満する音楽を演奏する老年の楽隊と、そうしたみすぼらしさを一掃して「キテル感を演出」したい界隈の管理者に出会うだけだ。「俺」のことを「けっこういい感じの、最先端流行野郎」だと勘違いした管理者は権現の大鳥居近くの掛け小屋に案内し、「赤ワインとちょっと洒落た小皿料理」やカレーを味見させ、権現躑躅踊りのリハーサルを見学させる。必死になって「俺」の意見を求める管理者に「まずい」「田舎臭い」とからかい半分文句をつけているうちに、「俺」はこうした「男がよきものだと思いたい魂の変形物」すべてを「偽の美の判者として徹底的に叩きのめ」さないと男に殴り殺される、「しまった」と思う。支配や管理への欲望をむき出しにする「男」を現在国政の舞台において与野党問わず若手議員を中心に伸張しつつある新保守主義勢力の戯画にとることができるほど、政治的に読むこともできるのだ。

 だがもちろんそれは意識してのことではあるまい。町田の感性はあくまでもインデアンカレーのように混沌を混沌のまま提出するところにあるのだ。最後の「逆水戸」(筒井康隆の往年の名作「裏小倉」にならって「さかさみと」と読みたいところだ)の抱腹絶倒の下らなさは他の作品にあった深刻さをも相対化してしまう。結句、読者はいろいろ分析せずに、この摩訶不思議な味をそのまま味わえばよいのだ。そのまずいんだかうまいんだかわからない味に私同様やみつきになるかどうかは、その人次第である。