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『桜の園』

 _^後期【ハイ・】^_モダニズムの大きな特徴であるミニマリズム。余分な装飾をそぎ落とし、_^精髄【エッセンス】^_まで煎じつめた作品を提示しようとするその姿勢は、後期ベケットの戯曲などに明らかだ。たとえば『息』(1969)では、明るくなるとがらくたが散乱している舞台が見え、小さな叫び声と呼吸音が聞こえてくるが、やがてゆっくり暗くなって終わり。何も予備知識を持たずに見た観客は呆気にとられるかもしれない。だがこの三十秒にも満たない短いシークエンスは、一人の人間が生まれ、死んでいくというドラマを象徴的に示しているのだとわかれば、ベケットの巧みな企みに感嘆せざるを得ないだろう。一人の人間の人生という、それなりに長く複雑な「仕組み」がごく単純な「仕掛け」に収まることの妙味がそこにある。
 ピーター・ブルックのもっともよく知られた著書『なにもない空間』(1968)には、「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある」という有名な一節があり、ブルック演出の美学の中核にミニマリズムがあることを示唆している。だがその一方で、ブルック演出の興趣は時としてあざといまでのシアトリカリズムにもあった。ミニマリズムが、演劇上演に必要な要素を最低限に絞るその禁欲性によってかえって観客の想像力を刺激するとしたら、シアトリカリズムはおもちゃ箱をひっくり返したような猥雑さ、「何でもあり」の哲学で観客の目と耳を楽しませてくれる。初期の、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでのいくつかの作品、そしてパリに国際演劇研究センターを作りブッフ・デュ・ノール劇場を本拠地とするようになってからのブルックの仕事は、シアトリカリズムとミニマリズムが交錯しているところにその魅力がある。いや、銀座セゾン劇場で1987年に『カルメンの悲劇』を、そして88年に『マハーバーラタ』を見て、ブルックの融通無碍さにいたく感銘を受けていた私のような人間には少なくともそうだった、と言ったほうがいいだろうか。特定の美学上の主張や趣味にこだわらず、その場面やその俳優に相応しいと思われた着想や工夫を舞台化していくブルックの職人技に私は魅せられていた。
 だから1989年に『桜の園』を見たとき、少なからず失望したことを私は正直に打ち明けなくてはならない。ロシア系であるブルックがチェーホフを手がけるのだから、メイエルホリド、ワフタンゴフ、リュビーモフといったケレン味たっぷりの、シアトリカルな趣向に満ちたロシア人演出家たちの系譜に連なるような演出を見せてくれるのだろう、と期待して劇場に足を運んだ私が見たのは、ミニマリズムの極致のような舞台だった。ペルシャ絨毯のような分厚い敷物に俳優たちが腰を下ろし、クッションに寄り掛かる。『桜の園』の過去の多くの上演において舞台空間の垂直線をなしていた桜の木立は示されず、舞台装置といえば背の低い衝立や本箱のみ。そびえ立つものが不在で、舞台空間が「横に広がっていく」という感覚が与えられるのは『カルメンの悲劇』や『マハーバーラタ』でも同じで、ブルックは空間をそんなふうに構成することで名作がおのずから備える権威や威圧感のようなものを解体しようとしていることは理解できた。その一方で、慣れない耳には重々しくぎこちなく聞こえるロシア語の台詞がこなれた英語に訳されて小気味よいテンポで話されるのを聞き、しかもそれを途中休憩なしの2時間20分という短い上演時間で体験すると、どこか物足りなさを感じずにはいられなかった。
 もちろん、スタニスラフスキー演出のモスクワ芸術座による『桜の園』初演(1904)が、重厚なリアリズム演技を通じて、そこで生きていく人々が感じている辛さや苦しみをまず示したのに対して、チェーホフ自身が『桜の園』を喜劇と銘打ったことを重視する流れがジョルジュ・ストレーレル演出(1974)やアンドレイ・サーバン演出(1977)で生まれてきている、という程度の認識はその当時の私にもあった。だが彼らの作品にあったはずのシアトリカルな要素が殆どないブルック演出は、何が「売り物」なのかよくわからなかった。たしかにラネーフスカヤ役のナターシャ・パリー、フィールスを演じたロバーツ・ブロッソムをはじめ、藝達者な俳優が洗練された演技を見せてくれたが、そういう藝を楽しむのであれば、『桜の園』である必要はないのではないか、そう思ったのだ。
 その後のブルック作品を見ていくうちに、自分が誤解していたことがわかるようになった。1981年にフランス語で上演されたのち、88年にニューヨークで初演を迎えた『桜の園』は、ブルックが徹底したミニマリズム——簡素な舞台装置と最小限の舞台効果というだけではない、もっと実質的な意味でのミニマリズム——へと向かう画期をなしている。ヨーロッパ演劇にとって20世紀は「演出家の時代」だが、よく知られた作品をいかに奇抜に解釈してみせるかを演出家たちが競う、という奇習も生まれた。そういう時代の申し子であったはずのブルックはしかし、作品の解釈にしのぎを削ることより、ある作品に_¨たまたま¨_表れている演劇の本質を探り当て、演劇_¨そのもの¨_を舞台に表出することに次第に関心を寄せるようになる。その傾向は当初からあったとはいえ、特定の作品が抱える固有性をできるだけ捨象し、作品に描かれた人間たちが織りなすドラマに、普遍的な演劇というべきものを象徴させる——『桜の園』という作品の「仕組み」を一個の「仕掛け」に転じてみせる——というブルックの離れ業は『桜の園』ではじめて完成した、と言えるだろう。後期ブルック作品の面白さは、後期ベケット戯曲と同様、ミニマリズムを突き詰め、さまざまなことを簡単な一つの仕掛けに凝縮させて示すことにある。
 今回の『Battlefield』が興味深いのは、シアトリカリズムとミニマリズムの交錯が特徴だった時期に作られた『マハーバーラタ』と同じ題材を扱いながら、現在のブルックがいかにミニマリスト的に作っていくかにある。数々のシアトリカルな趣向はどこまで残るのか。それがどうあれ、ブルックが「演劇」の_^精髄【エッセンス】^_を取り出してみせる手つきをまず見てみたい。

ピーター・ブルック『Battlefield』公演パンフレット(2015年11月新国立劇場)