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ダークな二人

芸術家が年をとるということはどういうことだろうか。ごくわずかの例外を除けば、作品に豊穣さをもたらしていた想像力は衰え、ばらばらの着想を強引に一つにまとあげる腕力もなくなる。そのかわり、老練な芸術家は技巧と表現の間の巧みな綱渡りによって精緻ではあるがどこか空虚な作品を作り上げる。音楽でいえばベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲、ドビュシーのヴァイオリン・ソナタのようなもの。では演劇ではどうだろう?
 半年ぶりのニューヨークで見た二つの作品がそれぞれ答えを出していたように思う。エドワード・オールビーのThe Play About the Baby とリチャード・フォアマンのNow That Communism Is Dead I Feel Empty である。
 デビュー作『動物園物語』以来ひたすら世界に対して呪詛の言葉を吐き続けているという点でオールビーは希有な作家である。今度の新作(ただしロンドンでの世界初演は九八年)もまた、彼の真骨頂を表すような作品だった。若くて無知だが善良さだけがとりえというような夫婦の間に子供が産まれる。そこへやってくる正体不明の老夫婦。二人とも六〇過ぎだが、値段の高そうな服をぱりっと着こなし、肌つやもよい。だが彼らには年相応の落ち着きというものがない。男のほうは劇場つきの道化よろしく、しきりに観客に話しかけて歓心を買おうとするし、女のほうは若い頃のエロチックな回想をわざと下品な言葉や仕草をまじえて語る。若いカップルはこの胡散臭い二人が何者なのか、何のためにやってきたかを不審がる一方で、愚にもつかぬ戯言を繰り返し、裸でじゃれ回る。
 永遠に続く暇つぶしという点ではベケットを思わせなくもない第一幕は、正直いって退屈だ。老夫婦を演じたブライアン・マレーとマリアン・セルデスの達者な演技に観客は大笑いをしていたが、その笑いの大半がアメリカの劇場でよくある観客と俳優の馴れ合いからくるものだと感じてしまうと少々白けてしまう。最後に老夫婦がやってきた意図が明らかになって物語はようやく展開する。彼らは「子供を奪いにやってきた」のだ。
 だが正体不明の邪悪な意志を隠し持った人物が、平穏と思われていた日常に侵入するという不条理劇おなじみのモチーフがいよいよはじまるのかと思うと肩すかしを食う。第二幕は第一幕の最後の部分をわざとらしく繰り返すというシアトリカルな導入に引き続き、いつの間にか赤ん坊が消えていることを発見してパニックに陥った若い夫婦を老夫婦がさんざんに言葉でなぶる。再び暇つぶし。最後にようやく彼らはタオルにくるんだ赤ん坊を二人に返すが、その中身は空っぽ。そして「赤ん坊は最初からいなかった」ということを若夫婦に納得させて幕が下りる。
 すべての快楽は味わい尽くしたといったふうの老夫婦たちが明かす真実が、赤ん坊という形象に託された希望や明るい未来といったものはすべて幻想にすぎないということなのであれば、今年七三歳になるオールビーの若い世代に向けられた悪意は明らかである。俺たちはさんざん楽しんだが、お前たちはただ空虚な時間を過ごして死んでいくのだ、ざまあみろ。枯淡の境地どころか、いつまでも衰えぬ邪悪さに感嘆はしたものの、そのことを言うためだけに二時間はやはり長いと見た直後には思った。だが時間が経過し印象が凝縮されるにつれ、意識の裡でオールビーの悪意がいわば結晶化していき、ああ面白かったなと思っている自分がいる。これも一つの「老い」の芸術のありかたなのだろうか。
 六四歳と一回り若いフォアマンも同じように「ダーク」な作風を特徴とするとはいえ、ある意味オールビーとは対照的な作家である。なぜなら彼の作品においては世界のほうが根拠のない悪意を抱いており、世界の邪悪な意志を託された人物たちが作者の分身とおぼしき主人公をみんなでよってたかって迫害するからだ。彼の劇団オントロジカル・ヒステリック・シアターは先頃来日して公演を行ったが、さほど注目を浴びなかったと聞く。いくつかの理由でそれは当然である。第一に、フォアマンは六〇年代から自分のスタイルをほとんど変えていない。どの作品もよく似通っている。「永遠のワンパターン」という意味では唐十郎にも比することができるかもしれない。人は新しいものを見い出すために彼らの芝居を見に行くのではない。いつまでも変わらないもの、そして時には申し訳ばかりのヴァリエーションを楽しむために見に行くのだ。そんなフォアマンのマンネリズムの独特の生ぬるさ/心地よさを味わうことができなければ、今のフォアマンを見て面白いはずがない。第二に、フォアマンの被害妄想的・唯我論的世界はユダヤ文化のShelemiel(ダメ男)の伝統を受け継いだものである。ソウル・ベロウが読まれなくなり、一時期圧倒的な人気を誇った古谷三敏の「ダメおやじ」(もちろん、ひたすら悲惨な前期「ダメおやじ」である)が日本漫画史の忘れ去られた一ページとして片づけられようとしている現在、この種のマゾヒズムとそれを支える「万人に愛されたい」という愚かだが切実な思いは町田康の読者ぐらいにしか理解されないのではないか。第三に、新宿花園神社で見ないと唐組を見た気がしないように、オントロジカル・ヒステリック・シアターの根拠地セント・マークス教会に行かないとフォアマンは見た気がしない。透明なアクリル板で仕切られた舞台と客席、床といわず天井といわず舞台のあちこちに置かれた不可思議なオブジェの数々、わざとらしくしかし正確な抑揚をつけて話す俳優たち、客席の中央にどかっと腰を下ろして上演を見守るフォアマン、こういったものはセント・マークス教会二階の薄汚く狭い空間にあってこそ魅力を放つのだ。
 しかし今回のフォアマンは少々趣を異にしていた。そもそも主人公が二人いる。まあその名前がフレッドとフレディーというのだから結局同じ人間、いつもと同じコギトのコギトによるコギトのための劇であることにはかわりはないが、ローレル&ハーディ以来のアメリカ喜劇伝統のコンビの道化芸を見事に演じてみせるジェイ・スミスとトニー・トーンのおかげで「遅れてきたモダニスト」フォアマンの自意識への執着ぶりが薄まったように感じる。相変わらず語るべき筋はないし、題名は内容と関係がない。だがおなじみの形而上学的ドタバタ劇は一種の「軽み」を備えたぶん、いつもより面白く感じられた。これもまた一つの道なのだ。
(ひびの けい・アメリカ演劇・映画)

『ユリイカ』第33巻第5号(2001年5月)掲載