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奴らはdrummer、やくざなdrummer—アメリカ演劇に見る『セールスマン殺し』の儀式—

0.セールスマンというタイプ
 ”It is obvious that Willly [Loman] can’t be an average American man, at least from one point of view; he kills himself” Educational Theatre Journal 10 (October 1958)でPhillip Gelbのインタビューに答えてArthur Millerはこう語っている。いかにも苦しい答えで、贖罪羊としての悲劇の英雄に要求される特殊性とthe Common Manとしての普遍性を、一人の人物の中でどのように止揚したと説明するか、執筆後十年近くを経てまだ悩むミラーの心境が伺えて興味深いが、ここではとりあえず額面通りとっておこう。それでも一つの疑問が浮かんでくる。自殺をするまではローマンは「平均的なアメリカ人男性」だったと言えるのか?
 妻以外の女性と関係を持ち、自分によく似た性格の息子Biffを溺愛するあまりその盗癖を容認し、落第寸前だと知ると友人に答えを教えてやれと命じるローマン。同じインタビューの中で、ゲルブはChristian Science Monitor紙の批評家がローマンを”vicious character”だと形容していることを紹介している。1950年前後にアメリカ人既婚男性の何割が実際に婚外交渉を持っていたか定かではないが、「身持ちの悪い」ローマンに自分たちの(あるいは配偶者の)似姿を認めることを断固として拒否する同時代の観客が相当数いたことは想像に難くない。ではどうしてミラーはもっと善良な男を主人公にしなかったのか?
 Timothy Spearsの100 Years on the Road: The Traveling Salesman in American Culture が指摘するのは、アメリカ文化の想像力の中に「よそ者」としての旅回りのセールスマンという原型が存在していたということだ。Sister Carrie の中でCarrieがシカゴに向かう列車の中で声をかけられ、のちに同棲するCharles Drouetもまた旅回りのセールスマンだった。Dreiserは”Here was a type of the travelling canvasser for a manufacturing house–a class which at that time was first being dubbed by the slang of the day ‘drummers'” (3)であると記し、ドルーエが個性を持った人間というより、その時代にどこでも見られた一典型であったことを読者に示唆する。だがTwainやHowellsといった「金ぴか時代」の作家たちが実業家をやはり時代を表す一つのタイプとしてとらえ、拝金主義批判の道具立てとして否定的に描いたのに対し、ドライサーのドルーエに対する態度はもっと同情的である。スピアーズによれば、それはドライサーが、宣伝技術の進展により世紀の変わり目以降徐々に見られなくなっていくセールスマンという形象の”imaginative reconstruction as a popular culture type” (175)を行ったからなのだ。
 ここでスピアーズが見ているのはRoderick Nashがかつて「西部」について明らかにしたのと同型のメカニズム、消えていくものは美化されノスタルジーの対象となる、というものだ。十九世紀後半、旅回りのセールスマンたちの”dirty-joke telling, drinking, and womanizing”(145)という悪癖や口のうまさはしばしば揶揄や軽蔑の対象にされ、またその(共同体からの)外部性はしばしばエスニシティと結びつけられて考えられた。とはいえ、それはかつてのヨーロッパにおけるユダヤ商人のように、ただ忌み嫌われるだけの存在ではない。スピアーズは言及していないが、Rodgers & HammersteinのミュージカルOklahoma!に出てくる旅回りのセールスマンAli Hakimはその遠い子孫だと言えるだろう。エロ写真を売りつけ、Ado Annie (“I Can’t Say No”)を誘惑してWill Parkerとの婚約を破局寸前にまで到らせる—ちなみに、この二人は喜劇でお馴染みの二組目の滑稽なカップルを構成している—ペルシア系のハキムはだが、結局憎めない人物として描かれている。十九世紀後半のメロドラマや三文小説に頻繁に登場する旅回りのセールスマンとは、出自こそ多彩だが、ハキムのような「悪い奴だけれど憎めない」人物が多かった。
 「悪い奴だけれど憎めない」から「欠点もあるが哀れむべき人物」へ、セールスマンという表象が十九世紀大衆文化から二十世紀モダニズムに持ち込まれるときに、「古き良き」初期資本主義に対する憧憬が作用し力点はわずかに移動する。だが忌むべき「よそ者」としてのセールスマンという意味は消えてしまったわけではなく、かすかに残る「邪悪さ」がセールスマンの他者性を観客に印象づける。
 スピアーズが取り上げていないもう一つの例、David MametのGlengarry Glen Rossの主役Shelly Leveneを考えてみよう。1992年の映画版ではJack Lemmonがいかにも尾羽打ち枯らしたセールスマンといった風情で哀感たっぷりに演じているが、客を騙して二束三文の土地を高く売りつけ(アメリカ版原野商法だ)、しかも上客のリストが売上成績の悪い自分には渡されないと知ると仲間とともに自分の会社に夜中に押し入ってリストを盗みだし、挙げ句の果てにライバル会社に売り渡す、というような悪行をしでかすレヴィーンをあんなにsentimentalに描くのは間違っている、あれはレヴィーンのLomanizingであるという批評がJacobsによってなされている。しかし『セールスマンの死』を当然意識していただろうマメットもまた、レヴィーン—姓はユダヤ系、名はふつう女性に用いられるものだから他者性の刻印が打たれていることは疑いがない—を哀れむべき人物として見る余地を残していたのではなかったか。邪悪さと悲哀の両極の間を揺れ動くセールスマンの形象という点ではローマンと同様なのだ。
 ではThe Iceman Cometh のTheodore Hickmanはどうか。オニールが見聞きし知っていた、実在する人物や場所をもとに書かれたこの作品において、Hickeyだけはそのモデルを特定できない、というのは有名な話である。Judith Barlowは、オニールの後期作品の草稿を丹念に調査したFinal Actsの中で最も有力な可能性としてJames Forbesのコミック・メロドラマThe Traveling Salesmanにおいて兄James O’Neill, Jr.(自身セールスマンだったこともある)が演じたWattsという脇役のセールスマンを挙げる。この推理が正しければ、オニールはすでにアメリカ文化の想像力の中に存在する、タイプとしてのセールスマンをもとにヒッキーを造形したということになる。
 ところがバーロウによれば、そもそもオニールの最初のメモにヒッキーの名前はなく、脇役でしかないバーテンダーのChuck(草稿ではBull)がヒッキー的な役割を担っていた可能性がある。とすれば、ヒッキーは必ずしもセールスマンでなくてよかったのではないか。少なくとも、オニールが求めていたのはメロドラマや三文小説に登場する、派手で陽気だが酒に弱く女好きな、いかにもセールスマンらしいセールスマンではないとは言えそうである。最愛の妻Evelynを欺きながら放蕩生活を続けることに耐えられなくなり射殺する。殺したあとになじみの酒場に行き、pipe dreamにひたる常連に「覚醒して人生の真実を直視しろ」と扇動する。邪悪さと悲哀は兼ね備えているものの、どう見てもあまり現実味のないヒッキーの行動は、タイプとしての旅回りのセールスマンと、『どん底』の巡礼ルカーのような、救済の幻想を与える人物をオニールの頭の中で無理矢理結びつけたゆえに生まれたと考えると合点がいく。
 その一つの証拠として、以下ではヒッキーに備わっていたセールスマンとしての三つの属性が、物語の展開の中でいかに剥奪されていくかを見ていきたい。「口がうまく」「腰が軽く」「人情の機微に通じた」典型的なセールスマンであったヒッキーは、いつものようにHarry Hopeの酒場に店主の誕生日を祝いに訪れる。しかし最初に店の外で彼を見かけた常連の一人で売春婦のCoraが”He was different, or somethin'”(606)と他の客たちに説明するように、どこか様子がおかしい。やがて姿を現したヒッキーは、セールスマンらしからぬところを次第に露わにしていく。この意味で『氷屋来る』は作者によるセールスマン殺しの物語でもある。そしてそれは、ミラーやマメットにも共通する主題だった。すなわち、タイプとしての旅回りのセールスマンをもとにしながら、「セールスマンらしさ」を(半ば意図的に)忘却し、「普通の人間」へと変貌せしめること。セールスマンという表象に本来備わる他者性を利用しつつも、ある程度それを薄めて、(ブロードウェイにやってくる白人中産階級の)観客が「ひとごと」ではなく「わがこと」として受け取れるように似姿を作り上げること。三つの作品に共通するこの「セールスマン殺し」はアメリカのリアリズム演劇が成熟するための一つの儀式だった。
 1 「説得すること」
 ヒッキーは登場したときすでに「セールスマンらしさ」を失いかけている。酒をやめたと告白し、お気に入りだった「氷屋」の卑猥なジョークも自分からは口にしようとしない。だがセールスマンの最大の武器、口のうまさは変らない。彼は現実逃避をして酒浸りの生活を続けるホープの酒場の常連たちに向かって「パイプドリームを捨てよ」としかしヒッキーが説くこの「真理」の後半部分につら説き、彼らはヒッキーの説得に応じていったんは外に出て行く。この過程をTiusanenのように”all the persuasiveness of an efficient salesman”(267)をもって行うセールスの実践としてとらえることは可能だろう。その際重要なのはメッセージの中身よりも、売り込みに使うテクニックである。それをヒッキーは自ら以下のように説明している。
It was like a game, sizing people up quick, spotting what their pet pipe dreams were, and then kidding ’em along that line, pretending you believed what they wanted to believe about themselves. Then they liked you, they trusted you, they wanted to buy something to show their gratitude. (696)
あるべき自分と現実の自分との隔たりを意識することで生じる自己不全感に悩む人間の「自分は変われるのだ」という幻想を肯定してやること。「この商品を買えば、あなたは変われますよ」は今も昔も変らぬセールスマン定番の甘言だ。『グレンギャリー・グレン・ロス』では、レヴィーンの同僚RomaがLingkという客にこの手口を使う。彼はレストランで隣り合わせたリンクに、人生における快楽とは何か、生の不安を払拭するためにはどうしたらいいか、といった禅問答を仕掛け、その答えとして、投機目的で土地を買うことを納得させる。
 しかし「パイプドリームを捨てよ」と説くときに、この手口を使うことができるのか。「自分は変われないと認めれば、あなたは変われますよ」。この命題自体論理矛盾ではあるが、人生訓としては納得できないこともない。だがヒッキーが説くこの「真理」の後半部分に魅了されて外に出て行った常連たちは、「自分は変われない」ことをいったんは認めなければいけないとわかると戻ってきてしまう。ヒッキーはこうして説得に失敗する。
 だが『氷屋来る』において、説得の失敗というセールスマンにとって致命的な一撃は第三幕の最後までやってこない。ヒッキーはその時点まではセールスマンらしくいられる。『セールスマン』では第二幕冒頭でローマンが年下の上役Howard Wagnerにニューヨークかボストンの中で回らせてくれるよう説得を試みるが功を奏さず、馘首を言い渡されるところが一つの転換点となる。『グレンギャリー』になるといきなり幕開きでレヴィーンが新分譲地の情報を自分にも与えるよう(やはり年下の)上役のWilliamsonに交渉するが、その場ではまとまらない、という場面が示される。
 このように時代が下るにつれ「セールスマン殺し」に時間を要さなくなってきているのは興味深い。それはおそらく、オニールの時代にはタイプとしてのセールスマンの呪縛はまだ強く、セールスマンを登場させたら口のうまいところを見せなくてはいけない、という暗黙の了解が作家と観客の双方にあったが、『氷屋来る』以降、「失敗に終わるセールスマンの説得」というモティーフはすでに作家および観客の想像力の中に織り込み済みとなった、ということを意味しているのだ。
 2 「動き回ること」
ヒッキーはセールスマンに憧れていた、と語る。それは牧師の家庭特有の堅苦しさから逃れるためでもあったが、また”[E]ven as a kid I was always restless”(693)だった彼にとり、”[keep] moving” (695)するセールスマンの生活を気に入っていたからでもあった。セールスマンになってからは当然家を空けることが多く、一ヶ月以上も連絡しないまま旅を続けることもあった。けれどアストリアにある自宅から歩いてホープの酒場までやってきたヒッキーは、「落ち着きのない」様子を見せるどころか、一通り自分の話したいことを話してしまうと、疲労困憊して眠り込んでしまう。それはあたかも、Berlinが指摘する、常連たちの”somnolent, inert state”(132)が感染したかのようである。第二幕ではホープの誕生日を祝うために買い物に出かけ、帰ってくると準備のために忙しく立ち回るヒッキーは、もとの活動的なところが戻ってきたように思われる。しかし幕切れ近く、感謝の言葉を述べるスピーチの席上で突然癇癪を爆発させるホープの後を引き取り、自分がいかに変貌したかを長々と述べるヒッキーは再び動かなくなる。
 『セールスマン』では「動かないこと」への欲求はもっと露骨に語られる。ローマンはワーグナーに向かって”I’ve come to the decision that I’d rather not travel any more” (79)と宣言し、電話一本で用事が済む伝説のセールスマンDave Singlemanを憧れを持って語る。妻のLindaと交わす最後の会話で彼は”I just want to get settled down, Linda. Let me sit alone for a little.” (134) と言う。『グレンギャリー』の第一幕では、セールスマンたちはずっと座って会話をしている。レヴィーンはアポなしの訪問の習慣を懐かしそうに語るが、電話による勧誘が主流になった現在、それは老いの繰り言でしかない。
3 「わかること」
第三幕、ヒッキーに焚きつけられ、次々と常連客がホープの酒場を去っていくのを見て、Jimmy Tomorrowもまた不承不承出て行こうとする。ヒッキーはわざとらしく喜んでみせる。するとジミーは怒って酒をかけるのだが、ヒッキーは動ぜず、”I know how he feels. I wrote the book” (672)という。他のところでもヒッキーは相手の気持ちや考えが「わかっている」と連発する。表情や仕草から相手の欲望を読みとること。それはセールスマンとしての永年の訓練のたまものだ。しかし同時にセールスマンは自分の欲望を隠さなくてはならない。自分の思惑を知られてしまったら商売は上がったりだからだ。ヒッキーは自分の妻の死を、死因を、自分が手を下したことを、小出しにして伝えていくが、それは「パイプドリームを捨てろ」と説く真の理由を悟らせないための煙幕のようなものだ。
 だからセールスマンとしての死は、「自分のことをわかってほしい」と普通の人間のように思うことからはじまる。ヒッキーはイヴリンに放蕩をやめられない自分を受け入れてほしいと心の底で願っているが、彼女は許してくれと謝る夫を慰めて”I know you won’t ever again” (699)と言い続けることで、夫が繰り返し過ちを犯す人間であることを理解することを拒む。ローマンもまた妻の善意ある無理解ぶりに悩まされる。第一幕冒頭で自動車をぶつけた彼は、自動車修理工や眼鏡のせいだ、休息が必要だと頑強に言い張るLindaと言い争いをする。
 もちろん、「わかってくれない」のは家族だけではない。『セールスマン』第二幕でローマンはワーグナーに自分の置かれた立場や心情を理解してもらおうとするが、家族の声を再生するテープレコーダーほどにも興味を持ってもらえない。『グレンギャリー』のレヴィーンはウィリアムソンに自分の犯罪を見逃してもらおうと巧言を弄したあげく、同情を買おうと娘のことを持ち出すが、”Fuck you” (104)と一蹴される。
 自分は相手のことがわかっていても、相手は自分のことがわかってくれない。その状況が続くと、セールスマンたちは次第に自分のこともわからなくなってくる。これがセールスマン殺しの最後の仕上げだ。ヒッキーはなぜ死んで横たわっている妻に向かって自分が”Well, you know what you can do with your pipe dream, you damned bitch!”(700)といったのかわからない。ローマンには悲劇の英雄にふさわしい自己認識を与えられていないとはしばしば指摘されている事実だ。レヴィーンは悪事が露見したあとで”So I wasn’t cut out to be a thief. I was cut out to be a salesman.” (101-102)と言う。しかしウィリアムソンに見放された彼は、もはやセールスマンにも戻れない。その意味でレヴィーンは二重に誤った自己認識を抱いたまま警察の取り調べに連れて行かれる。
 人を説得できず、鈍重で、自分のことすらわからないセールスマン。それは19世紀後半に端を発するタイプとしてのセールスマンからは遠く隔たった存在だ。だがオニール以降、アメリカ演劇におけるセールスマンは徐々にそのような存在になっていった。もはやその核にある他者性の起源を問われることもないセールスマンは現在、奇妙な戸惑いだけを観客に与え続ける。
参考文献
Barlow, Judith E., Final Acts. Athens: University of Georgia Press, 1985.
Dreiser, Theodore. Sister Carrie, New York: Norton, 1991.
Jacobs, Dorothy H.. “Levene’s Daugher: Positioning the Female in Glengarry Glen Ross” in David Mamet’s Glengarry Glen Ross: Text and Performance, ed. by Leslie Kane, New York: Garland, 1996.
Berlin, Normand. Eugene O’Neill, London: Macmillan, 1982.
Mamet, David. Glengarry Glen Ross, New York: Grove Press, 1983
Miller, Arthur. Death of a Salesman, New York: Penguin Books, 1976
Nash, Roderick. Wilderness and the American Mind, New Haven: Yale University Press, 1967.
Spears, Timothy B.. 100 Years on the Road: The Traveling Salesman in American Culture, New Haven: Yale University Press, 1995.
Tiusanen, Timo. O’Neill’s Scenic Images, Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1968.