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「遺産相続」の劇

 『焼けたトタン屋根の上の猫』の作者テネシー・ウィリアムズは、アーサー・ミラーとともに戦後アメリカ演劇を代表する劇作家と言われる。ウィリアムズもミラーも、一九三〇年代から劇作を手がけ、四〇年代にブロードウェイ・デビューを飾り(ウィリアムズは『ガラスの動物園』[一九四五]で、ミラーは『みんなわが子』[一九四七]で)、四〇年代から五〇年代にかけて演劇史に残る傑作をいくつも発表する。とりわけ、五〇年代のウィリアムズの創作意欲はとどまるところを知らず、多幕物では『薔薇の刺青』(一九五一)、『カミノ・リアル』(一九五三)、『焼けたトタン屋根の上の猫』(一九五五)、『地獄のオルフェ』(一九五七)、『青春の甘い鳥』(一九五九)、これに『去年の夏、突然に』(一九五八)をはじめとする八本の一幕劇や『ストーン夫人のローマの春』(一九五〇)などの長編・短編小説、映画『ベイビー・ドール』(一九五六)脚本執筆をくわえると膨大な数にのぼる。
 その新作ラッシュのなかで執筆され上演された『焼けたトタン屋根の上の猫』では、マギーと夫ブリック、そしてブリックと同性愛の関係にあった、自殺した友人スキッパーとの三角関係に焦点が当てられることが多い。たしかに、今ふうにいえばセックスレスの夫婦関係に悩むマギーと、自らのホモセクシュアルな欲望を認めることができないでいるブリックという二人の造形は、通俗的で扇情的すぎるきらいはあるけれど、現代の観客にとっても大いに興味を引かれるものになっている。
 だがこの作品は、南部の大富豪一家を舞台にした遺産相続をめぐる劇でもある。がんで死期間近のビック・ダディは、自分の財産を狙っている長男グーパーとその妻を尻目に、お気に入りの次男ブリックに継がせたいと考えているが、ブリックたちには子供がいない。ビッグ・ダディの意向を知ったマギーは妊娠したと嘘をつくことで、二人は財産を手に入れる。
 一九五〇年代に書かれたウィリアムズ作品で、遺産相続が隠れた主題となっているものは他にもある。『地獄のオルフェ』では、糖尿病で死の床にある年上の夫の目を盗み、これまで送ってきた愛のない生活を埋め合わせるかのように青年ヴァルとの愛欲におぼれる中年女性レディは、禁酒法時代に父が経営していたもぐり酒場を復活させようと試みる。それが父から受け継いだ唯一の財産だからだ。『去年の夏、突然に』も、資産家ヴェナブル家の一人息子で詩人セバスティアンの死後、その死因をめぐって母のヴァイオレットと従妹キャサリンが対立するが、それはまたセバスティアンの遺産の行方をめぐる対立でもある。
 一方、財産の相続が主題になっているアメリカ演劇の戯曲はそれほど多くない。不労所得をもたらす資産は、万人に等しく機会が与えられているという民主主義社会の建前に不似合いだからかもしれない。たとえばミラーの作品では、『みんなわが子』をのぞけば、ブルジョアジーと呼べるような資産家は出てこない。ユージン・オニールの『奇妙な幕間狂言』(一九二八)も『喪服の似合うエレクトラ』(一九三二)もブルジョアジーが主人公だが、財産の相続はほとんど問題にされない。『楡の木陰の欲望』(一九二四)では、ニューイングランドの農場を三兄弟の誰が相続するかが話題になるが、資産価値はあまりないようだ。サム・シェパードも『埋められた子供』(一九七八)をはじめとして、父から子の相続を主題とする作品をいくつか書いているが、その相続は象徴的・神話的なもので、父から子へと受け継がれる物質的な財産は僅かでしかない。重要な例外は、姉弟の資産家同士の骨肉の争いを描いたリリアン・ヘルマンの『子狐たち』(一九三九)で、これはヘルマンがウィリアムズと同様に、南部社会の「貴族階級」とよばれた裕福な白人たちを主人公にしたからできたことだった。だがその緊密な構成や鋭い人間観察にもかかわらず、ヘルマンの評価が不当に低いのは、財産争いを繰り広げる「欲にまみれた」人間たちの話が、勤勉を尊ぶアメリカ人には不快だから、ということは十分にありうる。
 ヨーロッパの近代劇は事情が異なる。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』や『桜の園』は土地の相続をめぐる行き違いの喜劇だし、イプセンの『ゆうれい』でも、夫の遺産を息子に相続させまいとしてアルヴィング夫人は孤児院を建設する。近代劇はウェル・メイド・プレイという十九世紀に流行した劇形式を批判しつつその影響も受けており、ウェル・メイド・プレイにおけるおきまりのモチーフだった遺産相続をめぐる争いが用いられるのだ。ウェル・メイド・プレイの登場人物はブルジョアジーであり、主な観客はまた彼らであった。ブルジョアジーの最大の関心事は「適切な」結婚と相続を通じての財産の保全と継承であり、そのための嘘や不正は黙認され、ときとして奨励される。イギリスにおけるウェル・メイド・プレイの継承者であるH・グランヴィル=バーカー『ヴォイジー相続物件』(一九〇五)を二〇〇六年にデイヴィッド・マメットが翻案して上演したが、そこでも父子二代にわたる横領という「相続物件」をめぐる駆け引きに嘘が使われる。
 嘘や欺瞞を使って財産相続を成功させる『焼けたトタン屋根の上の猫』はだから、ヨーロッパの都市ブルジョアジーの家庭で起きる遺産相続をめぐる騒動という、近代劇やウェル・メイド・プレイで扱われた主題を、農本主義的なアメリカ南部社会に舞台を移して展開した作品だとも言える。『欲望という名の電車』(一九四七)におけるブランチの転落も、代々受け継がれてきた農園ベル・リーブを失ったことからはじまったことを考えると、財産の保全と継承というモチーフはウィリアムズにとっても重要だったことがわかるが、世界第一位の経済大国となった第二次世界大戦後のアメリカにおいて、遺産相続の劇が次々と書かれ、受け入れられたのは興味深い。それはようやくアメリカという国が、富とそれに伴う腐敗、欺瞞というヨーロッパ的主題を身近な問題として捉えられるようになった、ということだからだ。ミラーと違って、時代や社会と直接切り結ばなかったとされるウィリアムズだが、やはり彼も時代の申し子なのである。

(新国立劇場2010年11月公演『焼けたトタン屋根の上の猫』パンフレット)

天の邪鬼の想像力:デイヴィッド・マメット

「私ども、選ばれた方たちにのみ、節税対策に効果的なマンション経営についてご案内しております。○○さまは資産運用をどうお考えですか?」自宅や職場に頻繁にかかってくる投資用マンションの勧誘電話。『グレンギャリー・グレン・ロス』(以下『GGR』)の主要な登場人物は、こういう電話をかけてくる連中だ。マンションならまだ本当に利益が出るのかもしれないが(違うのかな?)、この作品のなかで彼らが売りつけようとするのは二束三文の土地。つまり、『GGR』作者のデヴィッド・マメットが描くのは、かつて日本でも大きな問題となった原野商法に従事する「セールスマン」の仕事ぶりなのだ。悪徳商法の被害に一度遭った人々はその後もターゲットにされ続けるとはよく聞く話だが、彼らが手に入れようと相争う「顧客名簿」は、こうしたカモにされやすいお人好したちの名前がずらりと並んでいる。

マメットはとてもひねくれた人だ。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(81年)にはじまり、数多く映画界に脚本を提供してきたこの人の真骨頂は、どんでん返しに続くどんでん返しで、『GGR』でもその魅力が味わえる。しかもハリウッドの名だたる演技派たちがケレン味たっぷりに演じるものだからたまらない。マメット自身が監督をつとめ、スティーヴ・マーティンが煮ても焼いても喰えない詐欺師を演じる『スパニッシュ・プリズナー』(97年)でもそうだが、『GGR』の映画版(92年、邦題『摩天楼を夢見て』)では、アル・パチーノ、ジャック・レモン、ケビン・スペイシー、アレック・ボールドウィンが口八丁手八丁のセールスマンになりきって思い切り楽しそうに演じている。生き馬の目を抜く不動産業界で、利用できると踏んだ人間はたらし込み、相手の隙をうかがってふんだくる、どう見てもヤクザな連中でしかないのだが、彼らはその有無をいわさぬ演技力で、マメットが描く悪の魅力を存分に見せてくれる。

だが、マメットがひねくれていると言うのは、予想通りには決して展開しない物語や一筋縄ではいかない人物たちを得意としているからだけではない。マメットといえば男くさい芝居という評価が定着していた90年代、フェミニスト演劇研究者からマメットは「女ぎらい」だと非難されたことがあった。99年、マメットは女性たちを主役に騙し騙されあう『ボストン結婚』(Boston Marriage は、19世紀ニューイングランドでレズビアニズムの隠語として用いられた)を書いて意趣返しをした。あるいはアメリカ演劇でセールスマンといえば、演劇史に燦然と輝くアーサー・ミラー『セールスマンの死』(49年)のウィリー・ローマンのことがまず思い浮かぶような状況のなかでマメットが『GGR』を書いたことを考えてみてもいい。ミラーによって「普遍的な人間の悲劇」だと定義されたローマンの境遇に私たち観客は涙するが、同じく尾羽うち枯らした初老のセールスマンでありながら、『GGR』の主役レヴィーンの悪辣非道ぶりに同情できる要素は少ない(ちなみに映画版でレヴィーンを演じたジャック・レモンは、あまりにも演技が達者すぎて哀れを誘うので、ある研究者はレヴィーンが「ローマン化」されているといって批判している)。ローマンの悲劇のようなものを期待して足を運んだ観客が唖然としているのを見て、してやったりとほくそ笑んでいるマメットの顔が思い浮かぶ。

換言すれば、マメットという人は天性の天の邪鬼で、大方の人のものの見方に正面切って「ノー」を突きつけるのが好きなのだ。1991年、最高裁判事クラレンス・トーマスによるセクシャル・ハラスメントがアメリカ社会の大きな話題となった翌年に発表された『オレアナ』の筋立ては、大学教授に対する女子学生のセクハラの訴えが、成績の悪い女子学生によるねつ造だととれるものになっていて物議をかもした。2008年、「良心的な」ユダヤ系の劇作家ならばリベラルな民主党の支持者であることを期待されているアメリカにおいて、民主党は「脳死」したという理由で保守的な共和党の支持に鞍替えすることを発表して、多くの進歩派知識人の反感を買った。

とはいえ、マメットはたんに斜に構えているわけでもない。マメットはエンターテインメントを提供しながら、同時に私たち観客にもっと想像力を働かせてみろ、と挑発している。たとえば冒頭に引用したセールストークを、私たちはわずらわしいとは思っても、電話口の向こうの相手がどんな人間で、どんな生活を送っているのかを想像することはめったにない。既存の社会的価値観にどっぷり浸かりきって生活している私たちが思いもよらぬ—あるいは考えることを無意識に拒絶している—ものの見方や、自分たちとは異なる人々の生活を観客の目の前に提示することで、私たちにもう一度考えさせること。ギリシア悲劇以来、良質の演劇が与えてくれるそのような体験をマメットの戯曲もまた提供しているのだ。

(『GGR~グレンギャリー・グレン・ロス』2011年6月・天王洲銀河劇場パンフレット)

別役実『象』の魅力:普遍性と時代性

別役実の戯曲には時代を超えた普遍性がある。『象』の初演は一九六二年だから、もう五十年近く経過したわけだが、これまでも何度となく再演されてきただけでなく、五十年後、百年後も上演され続けるだろうし、そのようなものとして日本現代演劇史に名をとどめることになるはずだ。
写実的な台詞のやりとりが続くなか、ふとした拍子に日常の裂け目から顔を覗かせる狂気を描く、という別役の一貫した作風は、一九七〇年代のアメリカ小説でいえばミニマリズムとよばれたものである。その旗手の一人であるレイモンド・カーヴァーの小説が日本で読み継がれているのは、幻想と現実の絶妙なブレンド具合を私たちがリアルだと感じるからだ。同様に、別役実の世界の魅力とは、私たちが日常生活のなかでどれだけ妄想を肥え太らせ、抱え込み、そしてそのせいで身動きがとれなくなるか、ということを骨身に沁みるように私たちに知らしめるところにある。『象』の病人が自分の背中のケロイドに拍手喝采を送る町の人々についての自分の妄想を語るとき、私たち観客は主人公の「男」と同じく、彼のことを「イタい」「サムい」と思い、「引いて」しまう。しかしほとんど同時に私たちは、自分たちも同じように思い入れのある対象について妄想を膨らませ、希望的観測を込めて語ることに気づき、愕然とする。
演劇評論家の菅孝行が『想像力の社会史』 (一九八三年)で指摘したように、『象』のおにぎりの食べ方談義に代表されるトリヴィアリズムもまた、別役実の変わらぬ魅力の一つである。どうでもいいことにこだわり、_^蘊蓄【うんちく】^_を傾けてみせる別役戯曲の登場人物たちは、滑稽であるだけでなく、どこかもの悲しい。彼らが些細なことに夢中になるのは、一種の現実逃避であり、「肝心なこと」に向き合えずにいることの裏返しなのだ、と私たちは直感的に悟り、笑いとともに寒々とした思いを抱く。もっとも『日々の暮し方』などのエッセイを読むと、別役本人も下らないことに拘泥するのが好きなことがよくわかるから、ここでは作家の生来の資質が、登場人物に対する批評的距離を示す装置に転化している、とは言えそうだ。
それからこれは誰も指摘したことがないと思うけれど、別役実の戯曲中の会話には、昭和三十年代の落語や漫才のリズムが感じられる。別役は八代目三笑亭_^可楽【からく】^_(一八八九ー一九六四)が好きだったことをあるところで語っているが、可楽や八代目林家正蔵、五代目柳家小さんといった、描写のうまさよりも語り口の淀みなさで人気があった落語家たち、あるいは獅子てんや・瀬戸わんやといった、後年の横山やすし・西川きよしのような「変拍子」漫才ではない、一定のテンポで言葉をやりとりしていく漫才コンビたちのリズムが戯曲に移しかえられているのだ。これもまた、別役戯曲がいつまでも古びない理由の一つだと思う。なぜならこのリズムとは、昭和初期から演芸の世界で徐々に形作られてきた人工的で抽象的な東京弁の口語のリズムだからだ。言葉は時代とともに移りゆくが、舞台の上でしか話されない、このちょっと気取ったよそ行きの言葉は、最初から現実とは関係がないゆえに普遍性を持つのである。
とはいえ、別役作品が時代性の刻印を帯びていないわけではない。むしろ逆である。ミニマリズムが六〇年代政治の季節の高揚感に対する「シラケ」の表現であったように、自我肥大し、幼児的な自己全能感に囚われた指導者たちによって徒に過激化した学生運動とその挫折は別役実に大きな影響を与えた。とりわけその初期作品において、声高に主張される「大文字の正義」に対して、小声でぼそっと「それは違うよ」とつぶやく、という別役の独特のスタイルはその直接の所産になっている。
『象』もまたそのような作品である。背中のケロイドを見せびらかし、人々の歓心を買おうとする被爆者という造形は、それ自体が米ソの相次ぐ核実験に呼応して盛り上がっていた当時の国内の原水爆禁止運動に冷水を浴びせるようなものであり、またこの作品を発表するにあたって別役自身も相当緊張していたことが初演プログラムに寄せた筆者の言葉でよくわかる。だがそれでも別役は原水爆禁止運動の展開について違和感を持ち、批判を覚悟の上でそれを表明せざるを得なかった。次第に党派性を帯び分裂していく現実の運動体に対する不信もあっただろうが、若き別役が感じ取っていたのは、もっと根源的な「表象」に対する不信だろう。人類史上もっとも残虐非道な暴力について語り、「再現」しようとすることの本質的な_^猥褻【わいせつ】^_さ。それは後年、アウシュビッツ収容所についての証言で構成されたドキュメンタリー『ショア』の監督クロード・ランズマンが、スティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』について投げかけた不信の念と同じ性質のものである。ナチスによるユダヤ人虐殺を「悲劇の物語」として消費してしまうことと同様、被爆者の言語化できない思いをわかりやすい言葉として流通させることは不謹慎なのではないか。いや、もっといえば、被爆者の中には、この作品の「病人」のように、手段と目的を取り違え、不毛な生を埋め合わせるために被爆体験を語るようになってしまった者もいるのではないか。別役は残酷だが鋭くそう問いかけている。
プリーストリー『夜の訪問者』の影響が見てとれる『マッチ売りの少女』(一九六六年)もそうだが、このように初期別役戯曲には「偽善の告発」という主題があった。当時は「善きことをしよう」という意志が社会のなかで勢いをもっていた分、その「善きこと」がたやすく「偽善」になりうる可能性を持っており、まだ若かった別役にはそれが耐え難く感じられたのだろう。現在では、「善きことをしよう」という意志がそれほど大きくは見られないので、「偽善の告発」の主題は見えにくくなっているかもしれない。ましてや、原水爆禁止運動をめぐる緊張した情勢などはなかなか伝わりにくい。だが別役の戯曲の面白さとは、時代を超えた普遍性だけでなく、刻印された時代性にもある。今回の上演ではその両方が楽しめることを願ってやまない。

新国立劇場『象』公演パンフレット, pp. 16-17(20103月)