文學界」カテゴリーアーカイブ

反復衝動としてのパスティーシュと「同一化」の失敗——中原昌也『知的生き方教室』

「模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」。言わずとしれた小林秀雄「モオツァルト」の一節だ。戦後間もなく『創元』にこのエッセイを発表したとき、小林は「今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える」と大見得を切ってみせたけれど、以来七〇年近く経った現在では、テクスト論や大衆文化研究の進展もあずかって、天才の独創性なるものが幾多の他人の模倣や剽窃の上に成り立っているということは、当然視されている感がある。

一方、天才とは_¨真似せずにはいられない¨_才能だ、ということはそれほど多くの人に了解されているわけではない。小林はモーツァルトが努めて模倣に励んだように書いているし、事実そうだろうが、天才のなかには(あるいは天才の資質を持っている人間のなかには)意図せずして模倣してしまう人がいる。誰だってそうではないか? むしろ真似ばかりして独自のものを生み出せない人間は凡庸と言うのでは? そうではないのだ。天才とは模倣の対象を、オリジナルより上手に模倣してしまう人間のことだ。立川談志の「野ざらし」は、三代目春風亭柳好の「唄い調子」と呼ばれる独特の節を模倣するのだが、本家よりもっと面白い。もっとノっていて、もっと浮かれている。八五郎が、夜に女の幽霊が訪ねてくることを期待して、野ざらしのしゃれこうべを釣ろうとはしゃいでいる感じがよく出てる。

でも談志も柳朝を意識的に真似て演じたのでは? もちろん真似していることを談志はわかっている。だがその模倣の出発点には、自分の聞いてきた名人たちの芸を真似せずにはいられない、という談志の衝動のようなものがある。ウィリアム・バロウズばりの、古典落語の名作のカットアップ「落語チャンチャカチャン」もそうだ。談志が取り憑かれたかのような迫力で「道具屋」「火焔太鼓」「大工調べ」といった作品のさわりを一気に続けて喋るのを聞いていると、この人は落語の制度に取り憑かれているのだ、そして制度をこうやってできるだけ正確になぞってみせることで、制度に忠誠を誓い、そのことによって自己確認をしているのだ、ということがわかる。

アンナ・フロイトはそのメカニズムを「攻撃者との同一視」と名づけた。「攻撃者を擬人化し、その属性を潜取し、攻撃を模倣する」ことで不安から逃れようとする心の働きは子どもだけでなく大人にも見られるものだ。天才は、芸術の制度、伝統、歴史といったものがもたらす重圧感に恐怖を感じ、それを模倣するしかないと思い込む。それが天才が「真似せずにはいられない」理由だ。自分の存在を脅かされるほどの恐怖を感じているから、必死になって模倣する。だからその模倣は時として本物よりすぐれたものになる。

『知的生き方教室』に収録された短編群は、他人の言葉に取り憑かれ、恐怖から逃れるために他人の言葉を反復し、同一化をはかろうとする天才・中原昌也による、失敗した試みの集大成となっている。中原の努力が報われないのは、同一化に失敗するからだ。中原が他人の言葉を上手に模倣すればするほど、中原は中原自身の掛けがえのない言葉を模倣するに至るからだ。それはたとえばこんなふうに。

朝、出勤するなり横になって、まったく起き上がる様子のない同僚の小さなうめき声が、耳にこびりついて離れない。そして、自分のデスクの脇にビニールシートをかけられて横たわる、一向に誰のものだか判らない死体のようなものが、長らく置かれたままである。そして、間違いなくそこから漂う異臭。「彼らは人肉で生きのびた」『知的生き方教室』152

井伏鱒二『黒い雨』のような原爆文学、或いはもっと広く、戦争による死傷者を描く文学作品のパスティーシュとして、主人公山本三津子の勤める文芸誌編集部の情景を描く、というここでの趣向を、中原じしんはほとんど意識していないだろう。なぜなら第一に、この緊張感溢れる描写からは、自らの趣向を悦に入って眺める作者の精神的余裕は感じられないからだ。むしろ、かつて似たような描写を作者が読んだときに感じた衝撃=精神的外傷が執筆時点でも残っており、批評的距離がほぼゼロの状態でそれを反復しているかのような切実さが伝わってくる。第二にこの描写は、「退屈極まりない文芸誌の仕事」を「ぜんぜん好きでない」三津子がつかの間見る幻想ということになっており、趣向としての効果を読者にたいして十分アピールしないうちに終わってしまうからだ。彼女は「心身共に消耗する」自分の仕事を「生きるためには仕方がない」と考えることから第二次世界大戦での人肉食の経験に思いを馳せ、やがて『人肉食による類似療法的呪術』なる架空の書物からの引用が延々と続けられることになる。

ある言説を巧みに模倣し、しかし読者がそのことをはっきりと悟る前に放棄して次の言説の模倣に移る、という中原の筆の運びは、「落語チャンチャカチャン」にも似ている。そこで生じているのは、笑いではない。自分に取り憑いている制度から逃れようと悪魔祓いにも似た仰々しさで制度をなぞってみせる人間を見守る者たちの顔に浮かぶ、強ばった半笑いだ。他人事だからその必死さは滑稽に思えるが、だからといって笑い飛ばすにはあまりにも真剣に真似をしているようにみえる。「これわからない客には何もわからないからね。何やってるのかと」と談志は「落語チャンチャカチャン」の終わりで語るが、それは二重の意味で正しい。引用されている元ネタがわからないとわからないし、談志がカットアップして落語を語るその動機の核に恐怖があることがわからないとわからない。

中原作品も同じだ。引用元のテクストが何かと想像を働かせ、無数の引用の織物たる中原のテクストの背後に、他人の言葉を模倣しなくてはという強迫観念を読み取ること。天才が天才たるゆえんは、文学という制度に中原が恐怖を感じ、「攻撃者との同一視」をはかろうとして、自分を文学の制度に偽装しようとするところにあること。文学への呪詛、小説が書けないことの焦り、それでも生活のために書かなければならない自分の状況にたいする絶望、中原文学にお馴染みのモチーフはすべて、いかに中原が文学という制度に重圧感を人一倍感じているかの証左だ。それがわかれば、中原の繊細さを、そして真剣に「文学」を真似しようとして失敗するその滑稽さを、私たちは慈しみ愛でるようになるだろう。

『文學界』第69巻第1号(2015年1月)

ずしりと重い芸術家小説:前田司郎『濡れた太陽 高校演劇の話』

デビュー以来、前田司郎という人はその圧倒的な才能の上に胡座をかいているなあ、と思っていた。『濡れた太陽』はそんな私の思い込みをあっさりと打破してくれた。

前田が主宰する劇団「五反田団」の演劇はよく「脱力系」と言われる。書く小説も『ガムの起源~お姉さんとコロンタン』とか『恋愛の解体と北区の滅亡』とかふざけた題名のものばかりだ。だけど中身はそうでもない。設定はSFチックで、タチの悪い冗談のようなものが多いけれど、それにくだらないギャグもてんこ盛りなんだけど、妙にリアルな心情が描かれていて胸に迫ることがある。自意識過剰なだけと思っていた登場人物が、怖いほど透徹した意識の持ち主であることが判明して虚を突かれることがある。太宰治のように、へらへら笑いながら人の喉元に合口を突きつけるような不気味さや恐ろしさを前田司郎は持っている。

でも、これまでの前田司郎の作品はそれだけで終わることも多かった。確かに合口を突きつけられた瞬間ははっとする。顔色が変わる。だけど、前田は読者や観客に突きつけた合口を次の瞬間、すっと引いてしまうのだ。「冗談、冗談」とか何とか言って。こちらがビビッているのを見るだけで満足して、前田はそのまま歩き去ってしまう。ああびっくりした、とはその場では思うけれど、喉元過ぎれば何とやらで、私たちはその衝撃を忘れてしまう。出会った瞬間だけでなく、ずしりと重い感触を後々まで残す、ということは余りなかった。

それは前田が、自分の才能を当然視し、かつ、軽く見ていたからだ。「天才なんてそう珍しいものじゃない。実は三百人に一人くらいはいるのだと思う。その三百人に一人のうち自分の才能に適した行動をとる者がまあ百人、さらに、その百人のうち世間の目に触れるのは十人に一人とか」(下巻112頁)と『濡れた太陽』の語り手は主人公相原太陽の才能について説明する。高校に入学したばかりの太陽がはじめて書いた戯曲「犬は去ぬ」は抜群に面白く、彼が所属する御屋敷山高校演劇部の同級生はおろか先輩たちにも大受けするし、御屋敷山高校が演劇コンクールの地区大会で敗退したあとも、太陽は自分の戯曲が面白かったという評価を変えない。それどころか、「でも、僕は、ちょっと、多分、本当のことを、本当のことが判りました。結局、自分を評価できるのは自分だけなんだと思います」(下巻349頁)とみなに向かって宣言する。「自伝的(?)高校演劇部小説」という中途半端なオビの惹句がなくても太陽が前田の自画像であることはまるわかりなので(作品内で相当部分が台詞として引用される「犬は去ぬ」は、前田が高校一年生のときに実際に書いた戯曲だという)、この認識は前田が自分の才能について抱いているものであることは言うまでもない。自分に才能があることを疑わず、それでいてその才能はそれほど特別なものではない、と思っている芸術家は大抵才能を安売りする。売り渋らなくても自分の才能は枯渇しない、しないようにうまく自分の才能を制御できるコツを掴んでいる、と思っているからだ。

前田の書く小説の手応えがこれまで今ひとつだった理由はしかし、もう一つあったような気がする。演劇というマイナーな芸術を愛し深く関わっている自分を前田が小説の中でどう表現してよいかわからず、結果的に作品の中で自分を十分出さずに誤魔化していたことだ。『逆に十四歳』で演劇をやろうと老人の主人公に持ちかけ、オーディションを企画しておきながら「こんな、大勢の人の怨念を背負わなくきゃいけないものだっけ?」(85頁)と言って逃げ出す旧友白田と主人公の言動は、演劇に対する両面価値的な感情を作者が抱いていることをよく示していた。

ところが『濡れた太陽』では「演劇部はダサすぎた。演劇という響きがダサいのだ」(上巻254頁)と考える渡井も結局演劇部に入り、みんなで演劇を作り始める。前田はここに至り、演劇が大好きで演劇のことばかり考えているダサい自分のことを主人公に仕立て、自分の思いの丈を思い切りぶつけることに取り組んだのだ。

それができたのは、一つには「教育」という目標があったからだ。コミュニケーション教育の一環としてプロの若手演出家を招いて一緒に作品作りを行っている福島県立いわき総合高等学校での経験がこの作品のもとになっている。『濡れた太陽』は小説と銘打っておきながら、戯曲のように役名と台詞が書かれるだけで地の文がない会話が所々挿入され、スタニスラフスキー『俳優の仕事』と見紛うばかりの具体的な状況が与えられたうえでの演劇論が開陳される。「芝居するってことは、意識的なことのように見えて、それだけではない。…潜在意識がコントロールしている領域は、潜在意識に操縦させるべきなのだ」(下巻8頁)などはそのままスタニスラフスキーだが、「喜怒哀楽なんて伝えて何になるんですか?」(上巻242頁)のように平田オリザ以降の現代口語演劇の主流となっている考えを開陳するところもある。

かつて指導した高校生を念頭に置きながら、自分が考える演劇とは何かということを読者に伝えることに作者が腐心したゆえに、『濡れた太陽』にはこれまでの前田作品にはない「重み」が加わった。四六時中演劇のことばかり考えるダサい自分をうまく隠して才能だけで佳品をすらすらと書き飛ばしてきた作者が、本当に自分の書きたかったことを書くためには、高校生のためにという名目が必要だったのは興味深い。それは前田司郎の裡に潜む本質的な他者性と関わっているからだ。だがその詳細を論じるには紙面が足りない。これだけは確認しておきたい。高校生のための演劇入門であるとともに、『濡れた太陽』はジョイス『若き芸術家の肖像』のような、芸術家小説であることを。

『文學界』第66巻第8号(2012年7月6日)

『遠い音』:良質のヤングアダルト文学

 うちの近所の市立図書館には、ヤングアダルト(YA)コーナーなる一角がある。そこにあるのは、もともと少年少女向けに企画されたシリーズ、すなわち、岩波ジュニア新書や集英社コバルト文庫の類だけではない。『いま、会いにゆきます』や『電車男』といったテレビや映画で取り上げられて話題になった本から、私たちが子供の時分からある、子供向けとは思えないほど大部の福音館古典童話シリーズまで、さまざまな分野やジャンルの本が所狭しと並べられている。十代の若者になんとか本を読ませたいと願う図書館員の熱意が感じられるセレクションなのであるが、同じ書棚に田口ランディや舞城王太郎、はたまたま村上龍までが並んでいるのを見ると首をかしげたくなる。いや、こういうのは「大人の本」とされているから背伸びしたいガキは読みたくなるんで、はじめからあなたたち向けですよ、と出されても興ざめなんじゃないですか…。

 これはしかし、日本においてYAというカテゴリがいかに実体のないものであるか、ということである。このカテゴリの誕生の地である北米では事情が大分異なる。全米にチェーン展開する巨大書店バーンズ&ノーブルのYAコーナーにでも行くと一目瞭然だが、英語圏文学においてYAというカテゴリは一つの市場であり、専門の書評家もいれば、研究書も出版されている。

 では英語圏のようにYAというカテゴリが確立しているのがのぞましいのかというと、一概にそうとも言えない。それはこういうことだ。YA文学の大半が、家族との葛藤、友人や恋人との軋轢、あるいは職業選択や趣味の追求にまつわる困難さといった古典的教養小説の主題を現代風にアレンジしたうえでリアリズムの手法で語るものであることはたしかだが、なかにはもっと象徴的な言葉や物語を用いて、主人公が他者との邂逅を経験し、自らのアイデンティティを確立していく過程を綴った作品もあって、意外に多様である。だがどんなYA文学にも共通する特徴はあって、それは、読者に対して真っ直ぐ語りかけてくる、という点である。

 「大人向け」の小説では、自らの言葉が読者にそのまま届くと作者が信じて書いているものはほとんどない。それは読者に対するあからさまな不信の表明や嘲笑的な態度といった極端なかたちをとることもあれば、「語りの共同体」に読者を誘い込むためのもっと洗練された戦略上の工夫であることもある。だがそのような仕掛けが表面化してこないような作品であっても、読んでいて他者との間にコミュニケーションが成立することについての根本的な疑念が伝わってこないものは、どういうわけかすぐれた作品だとは見なされない。作品の核に隠された、言語による自己疎外の感覚を共有することができるかどうかが「純文学」を理解できるかどうかの資格試験であるというかのように、この壁は厳然としてそびえ立っている。

 英語圏文学にYAというカテゴリが存在する裏側の事情には、語りというメタレベルでのコミュニケーション不全は子供たちに味合わせたくない、という大人たちの黙契があるように思われる。なるほど、物語のレベルでは登場人物たちはコミュニケーション不全によって悩み、同じようにコミュニケーション不全に苦しむ読者であるティーンエイジャーたちの共感を誘うことになる。しかしこうした物語では、遮断されていたコミュニケーションの回路は最終的には再び開かれるのが常であるし、たとえそうでないにせよ、作者の筆致はコミュニケーション不全の状況があるということは明確に伝わるようになっている。そこに、子供を安全な場所に「隔離」するという思想が働いていないとはいえまい。その意味では、むしろ日本のように、「純文学」もあれば鏡像段階での妄想を書き殴ったものもあるといった、てんでばらばらな状態をYAという緩いくくりで括ってしまうことにこそ、真の教育的効果があると言うべきではないか?

 前置きが長くなった。カナダ人女性作家フランシス・イタニの長編『遠い音』は、今述べたような意味で、きわめて良質なYA向けの作品である。簡潔で無駄をそぎ落とした文体からは、自分の語ることは読者に百パーセント届くはずだという堅い信念が伝わってくる。カバー折り返しに掲載されている写真の著者の眼は、見ているこちらの眼を射抜くかと思われるほど強い光を放っており、そこに表現されている真っ直ぐな想いはたしかに作品全体に充満している。屈折した「大人」には時として耐え難いほどの純粋さ。もちろん、それを欲している大人にとっては十分に楽しめるものではある。

 五歳の時猩紅熱で聴覚を失った少女グローリアが聾学校に通い、成人し、健常者の伴侶とめぐり逢い、幸せな日々をつかの間過ごすも、夫ジムは第一次世界大戦に出征してしまう、というこの作品の筋立ては、ある種のメロドラマを想像させるに十分なほど通俗的に聞こえるかもしれない。実際、帯には「静寂の大地カナダに感動がこだまする大河長篇」とある。だが抑えられた筆致は、グローリアやジムやその周囲の人々が、苛酷な運命に翻弄されつつ、いかに慎みを失わないでいられるか、という部分に焦点があてられており、大味なメロドラマとは対極の位置にある。たとえば、ジムは傷病兵としてたくさんの戦傷者を介護したりその最期を看取ったりするのであるが、その一人であるトミーが痛みをまぎらわそうと饒舌にしゃべり続けるのを聞くと苛立ちを感じる。

「おれにもわかっていることがひとつある」とトミーが言った。声がふいにか細く、弱々しくなっていた。

 だが、ジムはトミーに何がわかっているのか聞きたくはなかった。彼は叫びだしたかった。<やめろ! そんなふうに自分の苦痛についてしゃべるのはやめるんだ! すこしは慎みというものを知れ!>

 だが、考えてみれば—自分はまったく健康であり、こうして動いたり、食べたり、小便をしたり、糞をしたり、無傷の口と舌でしゃべったりしているのだから—それを考えてみれば、まさに残酷なほど慎みを知らないのは、自分のほうにちがいなかった。

 どんなに感情を揺さぶられるような体験をしても、決して叫んだり泣きわめいたりしないこと。他者と自己との境界をつねに意識して、人様の気持ちをあれこれと詮索しないかわりに、自分の心に他人がむやみやたらに立ち入ることを拒絶すること。こうした抑制の美学とでもいうべきものがここにはある。だが、作品に緊張感を与えているのは、この抑制の美学が外的状況によってつねに脅かされているという構図である。グローリアの聴覚が失われたことからはじまって、ジムが激戦地であるベルギーやフランスの戦場を転々とする間に見聞きする阿鼻叫喚の地獄絵図まで、感情を暴発させても当然という場面が繰り返し描かれる。しかし主人公たちは冷静に状況を理解しようと努めるのだ。

 その意味で、原題の Deafening という題名はとてもうまい。「耳をつんざくような」というこの形容詞は、撞着語法で deafening silence のようにも用いる。つまり、この題名は「耳をつんざくような」外界の騒音(聾であることを過度に気にする無理解な隣人や戦場の騒音といった)と表すと同時に、そうした外界に対して直接の反応を示すことを拒絶する「深い沈黙」をも表しているのだ。作者にとって 「深い沈黙」とは、その場で起きていることを理解するために、反応が一瞬止まることの比喩になっている。手話を解さない健常者たちの唇の動きを読み取って何を言っているかを理解するためにグローリアが必要とする数秒の「遅れ」。しかしこの「遅れ」は、ジムが戦場で消費される圧倒的な物量を目の前にして感じる理解の遅れとして体験されることによって、より普遍的なものになる。

むかし—あの青い毛布の上に坐っていたとき—きみが話してくれたことがある。きみにとって理解が遅れてやってくることがあるということを。いま、ぼくはそれがもっとわかるような気がしている。実際に起こっていることと理解していることのギャップがわかるような気がする。そこにあるものとそこにはないもの。たくさんのものが入ってこようとし、たくさんのものが侵入してこようとする。音はぼくたちを圧倒する。あらゆる思考を停止させる。猛毒のガスみたいに体内に滲みこんで、すべてに浸透し、あらゆる裂け目や割れ目を満たそうとする。

理解することとは、このように遅れて反応することであり、同時に「物自体」が自らの裡に入り込んでくることを防ぐことでもある。耳をつんざくような騒音に満ちあふれる世界にあって、抑制の美学を貫くためには、deafening silence が必要なのだ。作者がもっとも伝えたいメッセージは、こうして作品の細部だけでなく、題名にも表れることとなる。

 その一方で、この作品の幕切れにいささか物足りなさを感じるのはいたしかたないだろう。グローリアの周囲に次々に死が訪れる中、ジムが無事に帰国するという結末は、当然予想されるものであるとは言え、もっと感動的に盛り上がってもいいはずだ。しかし作者にとって、困難な状況下で禁欲の美学をいかに貫くか、ということのほうが、二人の再会よりも重要だった、ということは容易に想像がつく。あくまでも予定調和的に物語は終わるが、作品を読み進めていくうちに感じとられる作者の強烈な想いはいつまでも読者の心を捉えてはなさない。

 語り手の自己韜晦の身振りがその個性を見事に消し去り、そのかわりに物語が前景化する、というのが「大人向けの」小説であるとしたら、この作品は一貫性を持った物語を語ることに専念しようとする語り手の姿勢がかえって語り手の存在を大きく浮かび上がらせ、物語を後ろに追いやってしまう、YA文学の一つの極を示していると言えるだろう。

『権現の踊り子』:インデアンカレー

 織田作之助『夫婦善哉』の中に登場するというのでその名を知られるようになった大阪名物に、自由軒のインデアンカレーがある。注文すると、皿に盛られたドライカレーの真ん中をくぼませて生卵を落としたものが運ばれ、特製ウスターソースをかけてぐちゃぐちゃに混ぜて食べるという代物であるが、町田康の小説は、このインデアンカレーによく似ている。本来別々に食するものが混ぜ合わせられて作り出される、何ともいえない味。本家本元のインドカレーとは似ても似つかぬ味だが、この味はまたそれとは別で、要するにこの味でしかない、と同義反復をすることで納得するしかないオリジナルな味。「西洋風」で「近代的」な料理のはずなのに、どこか日本的で前近代の匂いのする味。「下品だ」といって顔をしかめる人間もいるが、そのまずいんだかうまいんだかわからない味にやみつきになってしまう人間もいる。

 短編集『権現の踊り子』に収録された作品はどれもそんな複雑で一筋縄ではいかない味わいを持っている。たとえば「ふくみ笑い」を見てみよう。「好物のバナナを売ってもらえない」「スタジオミュージシャンの仕事が突然来なくなる」等々の不可解な迫害を受ける「俺」は相手のふくみ笑いに自分の知らない意味がこめられているのだと考え、これは単なる被害妄想でないと「クリアーで冷静な頭で」判断する。そのうちに「人間や犬に触れると表皮から体液を滲出させて腐らせてしまう」一尺ばかりの紐とも皺のある棊子麺ともつかぬ物体が無数に空中を飛んでくるようになり、捕虫網を振り回しては紐を捕りドラム缶で燃やす大男から、紐は現実に裂け目が生じて時間に入ったノイズだと教えられ、一緒に紐をとって焼くように頼まれるが、「俺」はふくみ笑いをする奴らを生命を賭して救うことが正しいことかどうかを男と議論する。

 『夢十夜』のように、非現実的だが奇妙にも一貫している夢の論理を忠実に記述しているようにも見えるこの作品は、しかしそれ以上のものを内包している。もちろん『夢十夜』に描かれる「夢」もまた作家夏目漱石が捉えた多面的な現実の反映であり、一意的な解釈を導くことを躊躇わせる類のものであるが、「ふくみ笑い」には、そうはいってもしょせんは個人の中で完結する夢の論理とは別の、上位の次元の物語が連結され、ごちゃまぜになっている。ドライカレーに生卵とウスターソースを混ぜ込んでいくのと同じ手口だ。何度も挿入される「べらんがめらんでソーダ水飲むン あきゃきゃ、あぱぱ、乳、踏んでおどろ」とはじまる意味不明の歌は、『楢山節考』の盆踊り歌を思い出させる。「ふくみ笑い」には、売れないミュージシャンの湯田典惇(ユダと読めることはここでは深く追求しない)に一年くらい借りていたギターを「俺」が返しに行くという物語が根本にあるのだが、深沢七郎が大のギター好きで、リサイタルを開いたりするほどの腕前であったことを知る読者にとって、町田が深沢に負っていたもの(とは、ある種の文学的な「やつし」の態度、目線の低さだろう)を返したいと思っている、というようにもとれる。最後に「俺」が遭遇する「すげえ虚無」は『天人五衰』の幕切れを思い起こさずにいられない、するとデビュー当時深沢を高く評価した三島由紀夫という連想がさらに働いて、読者は一つの文学史的連環がこの作品に実現されているのを見ることになる。この三者をつなぐのは、本来自閉的な日本文学の空間に他者の表象をどのように滑り込ませるかという問題意識だ。

 もちろん、「口では友達のようなことを言っておきながら、しょせん仕事のない奴だ、と内心ではなめていた」と道すがら湯田に対する自らの態度を反省する「俺」が、理不尽な迫害を次々と蒙るという構図そのものに、今や有名作家となった自分に抱く町田自身の罪悪感や無名時代からの友人たちへの奇妙な申し訳のなさが投影されている、と考えることは可能である。二十年前、若くて貧乏だった頃によくつるんで遊んでいた「鶴」が病院で死にかけていると聞いて見舞いに行こうとするがたどり着けないという「鶴の壺」や、お金を使うまいとさまざまな生活の工夫をこらすのだが、肝心なところで抜けているので失敗ばかりし、最後には感電死してしまう減さんを語った「工夫の減さん」といった作品もまた、「人間の屑」から出世してしまった自分への気恥ずかしさ、ずっと「人間の屑」でしかいられなかった友人への二律背反的な思いが表現されていると考えてもあながち間違いではあるまい。

 しかしこうした、いわば独り善がりの理屈、個人が見る夢の中でしか許されない独我論的論理を超えていこうとするのが町田康の倫理というものである。「すまない」と考えることこそが思い上がりであるという思考回路が生み出すのは、夢の論理を包含しながらそれを社会的な意識の在りかたへと作り変えていくようなヴァイブレーションだ。「ふくみ笑い」ではそれが先行する文学者たちへの関係意識を描き出しているように見えた。「鶴の壺」でも、鶴が入院しているのが神殿奉祝病院とあり、一種の天皇論となっていることがわかる。そして表題作「権現の踊り子」では「伊豆の踊子」に体現されている(とされる)「美しい日本の私」的感性がグロテスクなまでにパロディにされる。権現市があると聞いて行ってみたはいいが、祭りはまだはじまっておらず、語り手の「俺」は「圧倒的な敗北感」が充満する音楽を演奏する老年の楽隊と、そうしたみすぼらしさを一掃して「キテル感を演出」したい界隈の管理者に出会うだけだ。「俺」のことを「けっこういい感じの、最先端流行野郎」だと勘違いした管理者は権現の大鳥居近くの掛け小屋に案内し、「赤ワインとちょっと洒落た小皿料理」やカレーを味見させ、権現躑躅踊りのリハーサルを見学させる。必死になって「俺」の意見を求める管理者に「まずい」「田舎臭い」とからかい半分文句をつけているうちに、「俺」はこうした「男がよきものだと思いたい魂の変形物」すべてを「偽の美の判者として徹底的に叩きのめ」さないと男に殴り殺される、「しまった」と思う。支配や管理への欲望をむき出しにする「男」を現在国政の舞台において与野党問わず若手議員を中心に伸張しつつある新保守主義勢力の戯画にとることができるほど、政治的に読むこともできるのだ。

 だがもちろんそれは意識してのことではあるまい。町田の感性はあくまでもインデアンカレーのように混沌を混沌のまま提出するところにあるのだ。最後の「逆水戸」(筒井康隆の往年の名作「裏小倉」にならって「さかさみと」と読みたいところだ)の抱腹絶倒の下らなさは他の作品にあった深刻さをも相対化してしまう。結句、読者はいろいろ分析せずに、この摩訶不思議な味をそのまま味わえばよいのだ。そのまずいんだかうまいんだかわからない味に私同様やみつきになるかどうかは、その人次第である。

 

『世界のすべての七月』:読者に既視感を与える小説

 『カチアートを追跡して』(一九七八)の作家、ティム・オブライエンの最新刊である『世界のすべての七月』(二〇〇二)を村上春樹が訳した。村上訳オブライエン作品としては『ニュークリア・エイジ』(一九八五)『本当の戦争の話をしよう』(一九九〇)に続いて三冊目ということになる。全作品を翻訳したレイモンド・カーヴァーのようにとはいかないまでも、オブライエンに対する村上の入れ込みようが伺われようというものだ。ところが村上の「訳者あとがき」は幾分言い訳がましく、「世間における一般的な評価とはべつに、個人的になんとなく気になる、あるいは気になってしょうがない」作家としてオブライエンの名前を挙げるところからはじまり、「オブライエンの作家としての今日的な値打ちみたいなものを、適切に言語化することが僕にはできない」と告白し、「傾向的に『下手さが目立つ小説をつい書いてしまう作家』」であるけれど「下手っぴいさに思えてしまうところが、オブライエンの小説家の徳のようなもの」だと、訳がわかるようなわからないような説明に終始している。私はその率直さに感心もしたが、その一方で、こんな気弱な書きかたでは、書店で手にとって買おうか買うまいか悩んでいるときの助けにならないのではないかと余計な心配もしてしまった。

 だが村上が気弱になるのもある意味では無理はないのかもしれない。英文で書かれたあちこちの書評を読む限り、よいことはあまり言っていない。『世界のすべての七月』はもともと『エスクワイア』『ニューヨーカー』といった白人中産階級御用達雑誌のために書かれたいくつかの短篇を核に発展した連作短篇集であり、一九六九年にダートン・ホール大学を卒業したベビー・ブーマーたちが、二〇〇〇年七月七日に大学体育館で開かれた同窓会に集まった、という設定のもと、五十を越えて先の見えた人生にほぼ幻滅しながらも、まだ若かりし頃の夢と希望を棄てきれずに人生を(少々自棄気味に)楽しもうとする現在の彼らについてのごく短いスケッチ風の描写と、三十一年前、世間知らずの理想家だった彼ら一人一人がこれまでいかなる人生を歩んできたかを語る短篇が交互に積み重ねられるという形式をとっている。若さと健康に取り憑かれた国アメリカにおいて老い衰えることの残酷さ、あるいは中年から老年にかけての生や性といった主題そのものが、現代アメリカ文学のみならずテレビや映画、演劇でしばしば扱われてきたものだし、平凡きわまりない登場人物たちの平凡ならざる人生が明らかにされる群像劇という形式はシャーウッド・アンダスンの『ワインズバーグ、オハイオ』以来使い古されてきた感がある。さらに、ある時代を支配する精神や風潮といったものに人々が流されていくさまを多少の感傷をこめて描き出す風俗小説は、『偉大なるギャッツビー』をはじめとするアメリカ小説お得意のジャンルだ。そこに公民権運動やヒッピーに代表される六〇年代の理想主義がヴェトナム戦争の敗北を経ていかに幻滅へと導かれるか、という大きな物語が加われば、(とりわけアメリカ人の読者にとって)「ありがち」だし「陳腐」だし「常套句と化している」という評価が出てくるのもうなずける。

 しかしおそらく、そのような評価は誤解の産物である。同じように失敗作という評価を受けた『ニュークリア・エイジ』について村上が行う「この小説が正当に理解されなかったのは、昨今のアメリカ人の本の読み方にいささかの問題があるからじゃないのか」という指摘は、『世界のすべての七月』についてもあてはまるかもしれない。しかしその一方でオブライエンもまた自分の資質を正しくつかんでいないからこそ、誤解を生むような作品を作り出してしまうのではないか、と言えるのではないだろうか。

 では一体オブライエンの資質とは何か。一言でいえば、読者に既視感を与える作品が書けることだ。どこかで見たような風景、どこかで聞いたような会話を紙上に作り出してみせる才能。それはリアリズムとは違う。マジックリアリズムといえば少し近くなるが、それでもぴったりとは言えない。実際の生活においてあるとき突如として既視感に襲われるように、オブライエンの小説を読んでいると、大体のところ現実味を帯びているが、どこかで夢のような頼りなさやはかなさを抱え込んでいる風景や会話が突然立ち上がってくる。体験したはずがないことなのに、なぜかよく知っている、懐かしいという強烈な感覚を抱いてしまう。『カチアートを追跡して』や『本当の戦争の話をしよう』が傑作であるゆえんは、ヴェトナム戦争という(とりわけ日本の読者にとって)遠い世界や時代の出来事がきわめてリアルに語られているからではない。『カチアートを追跡して』で言えば、脱走兵カチアートを追跡する小隊の一員ポール・バーリンが、目の前で次々と起きる不思議なことを受け入れていく感覚が、既視感を抱きつつもこれははじめて起きたことなのだと現実を追認する私たちの感覚に重なって、現実とも幻想ともつかぬバーリンの体験を追体験することになる、それが抜群の効果をもたらすからである。

 けれど『世界のすべての七月』では、オブライエンの作り出す既視感は間違った方向に受け取られてしまう可能性がある。これまでの作品と違って、馴染みのない世界や出来事を描いているはずなのに、なぜかすでに見聞きし知っているような気がする、という感覚が与えられるのではない。読者の多くにとってきわめて馴染みのある世界が描かれているゆえに、読者が得た既視感は、同じ題材を扱った小説やテレビや映画の記憶によるものだと誤解され、それゆえに「ありがち」で「陳腐」で「常套句と化している」ということになってしまうのだ。

 だがよく読めば(そしてこうした世界に比較的馴染みのない日本の読者にとってはそれほどの努力を要さなくても)この「なんだか懐かしい感じ」はこの作品の主題や形式やジャンルや物語が二番煎じ、三番煎じであるがゆえに得られるのではないことがわかる。二人の夫を持ち両方の家を往復するだけの生活に飽きたらず愛人を作るスプーク・スプネリや、ヴェトナム戦争で片脚を失って以来、ジョニー・エヴァー曹長という名前の男が夢の中に現れて未来を言い当てきたと思い込んでいるデイヴィッド・トッドをはじめとする登場人物たちは、現実に存在しているようでいて、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている。にもかかわらず、「こういう人間を自分はよく知っている」と読者が思い込むのは、オブライエンの筆致のせいなのだ。オブライエンは大学の同窓会に出たことはないそうだから、すべては想像力が作り出した幻であり、細部にはおかしなところもあるはずだ。それなのに、「この小説はどこかで語られた物語の焼き直しである」と評論家がかたく信じて疑わないのは、オブライエンが私たちの記憶を捏造するからである。

 この小説の読後感は言うまでもないだろう。捏造された記憶としての既視感がいつまでも私たちの脳裏に残って離れないように、この小説の登場人物が交わす会話や特徴を描いた地の文の中には、妙に生々しく感じられてしばらく意識に取り憑くものがある。この作品を読み終えてから数日して突然記憶の中にある一節が蘇ってきたりする。もちろんそれは『世界のすべての七月』が良質の小説であることの証左なのだ。

 訳文はわかりやすかったが、「気を楽にして、その素敵な髪を下ろしなさい」(三一〇頁)「全部壁に書いてあった」(四一七頁)のように、英語の慣用句を注なしで直訳しているところが数カ所あって気になった。英語の表現に慣れていない読者は戸惑うのではないだろうか。

『ガラテイア2.2』:人工知能SFの衣をかぶった青春小説

 『ガラテア2.2』は二〇〇〇年に翻訳されて話題になった『舞踏会へ向かう三人の農夫』の作者リチャード・パワーズの邦訳第二作である。訳者は柴田元幸氏から若島正氏へと変わった。今年さらに、みすず書房からは同じ若島氏の訳で『囚人のジレンマ』が刊行されることになっており、トマス・ピンチョンに続くアメリカ文学の旗手と言われることもあるパワーズの紹介ラッシュがしばらく続きそうである。

 さてこの小説の「売り」は、人工知能がどこまで人間の知性に近づけるか、というSFの古典的主題に、文学的味つけをしたというところにあるようだ。ガラテイアとは、ギリシア神話でピグマリオンが恋に落ちる自作の彫刻の名前で、この物語の中では認知神経学者レンツが開発し、語り手である「僕」、小説家リチャード・パワーズが訓練をするプログラム、「ヘレン」の別名である。作者と同じ名前を持つこの語り手が、恋人Cと別れオランダからアメリカに戻ってくるところから物語ははじまる。彼は母校の大学の客員研究員としての職を得て、巨大な先端科学研究所にオフィスを与えられたのだ。ある晩漏れ聞こえてくるモーツァルトのクラリネット協奏曲に誘われてレンツの研究室に迷い込んだ語り手は、このエキセントリックな老科学者とその同僚たちの賭けに巻き込まれ、コンピューターに英文学の修士総合試験の試験を解かせて人間と変わらないような答案を書かせられるということを証明する羽目になる。プラグラムは何度かバージョンアップされて、ついには人間の意識に酷似した機能をそなえたヘレンが誕生することになる。

 この基本的な筋立てに説得力を持たせるために、人工知能についての膨大な知識が披露されるわけだが、それはいわば作者によるくだくだしいエクスキューズであって、この小説のいちばんの面白味となっているわけではない。『舞踏会に向かう三人の農夫』でもそうだったが、理系に進んだ後「文転」して小説家になったパワーズによる情報の提示のしかたは、いかにもアメリカで人文科学系の訓練を受けた人間のもの、という感じがする。そつなく満遍なく行われているのだが、客観的叙述を心がけるあまり、時として無味乾燥のきらいを免れないリサーチ。調べた人間の息づかいや感情といったものがほとんど伝わってこないために、書かれた事実に読者が引き込まれることがあまりなく、淡々と報告書を読んでいるような気持ちになってしまうような説明。

 それはたとえば、ピンチョンの衒学趣味とははっきりと異なるものである。ピンチョンの小説で与えられる情報は多かれ少なかれ「謎」の解明という側面を持っている。たとえ比較的よく知られている事実であっても、ピンチョンの筆致にかかるとあたかも今ここではじめて明かされたかのような気がしてしまう。パワーズが読者にもたらす情報は、よく言えば、もっと開かれている。読者と知識を共有すること自体が作品の駆動力となるような構成といえばよいだろうか。だが悪く言えば、ある種の迫力に欠ける、ということである。読者は心のどこかで、作者に手綱をとられて引きずり回されたい、と思っているものだから。

 だが『ガラテア2.2』はパワーズの他の小説と同様、多面的な構成を持っている。たとえばこれは、よくできた大学内幕物小説(デビッド・ロッジの『交換教授』や『文学部唯野教授』などが同じジャンルとして挙げられるだろう)としても読めるだろう。大学教師がいかに変人の集まりであるか、あるいは学問という名の下に強制される苦行に、学生がいかにマゾヒスティックに耐えているか、ということについて面白おかしく語られる。しかしこれもまた、この小説を読むおまけの楽しみに過ぎない。

 『ガラテイア2.2』の本当の魅力は、語り手の語る過去のほろ苦い追想にある。もともとパワーズは、永遠に失われて帰ってこないものへの哀惜を小説の主題に据えることが多かった。モーツァルトのクラリネット協奏曲から導かれるこの小説の世界は、はじめから喪失の感覚に満ちている。書き出しの二行目から「僕は三十五歳と別れてしまった」(原文を直訳すれば「自分の三十五番目の年を失った」)と記され、レンツたちとの出会いと並行して、恋人Cとの十年間余りの生活が描かれる。学生同士の貧しくも楽しい暮らしは、移民であった両親を追ってCがオランダに移住するのをきっかけに異国の地で新たな展開を見せるが、やがて「僕」が有名作家になったことで二人の仲がぎくしゃくしていき、破綻が訪れる。そのエピソードと前後して、「僕」が文学の道を進むきっかけとなった恩師テイラーの薫陶と、癌によるその死、そして死の三日後にロバート・サーヴィスの詩集を送りつけてきた父親との永久の別れが語られる。

 何かが永遠に失われてしまっているという事実に傷つきつつも前向きに生きていこうとするのは「僕」だけではない。レンツもまた、脳梗塞で惚けてしまった妻がおり、その同僚で「僕」に何かと世話を焼いてくれるダイアナも、知的障害児を抱えて夫に出て行かれてしまっている。彼らもまた、この世には完璧なものは存在せず、ただ「思い」だけがかつて完璧であった世界を蘇らせてくれる、というパワーズの小説を貫く倫理観を体現している人物なのだ。だがこの小説がいっそう切なくやるせないのは、物語が進むにつれて、喪失の感覚が世界にいっそう浸透していくところにある。過去に収まっていることに飽き足らないというかのように、喪失の体験は現在進行形で起こり始めるのだ。「僕」は大学院生Aに恋をするが、報われぬまま終わる。そしてヘレンもまた…。

 『走れ、ウサギ』をはじめとして、輝かんばかりの青春を過ごした人間が砂を噛むような思いで不毛な現在の生に耐えている、という筋立てを多用したジョン・アップダイクも、この小説を読んで涙したという。アップダイクよりも「倫理」的なパワーズの登場人物たちは、「今」をもう少し真面目に生きようとしている。だが、だからといってそれは過去の喪失の痛みがそれだけ少ないということではない。終わり近くで「僕」はこう言う。「僕の物語の中に出てくるものは、なにも去ったりはしない」。 つまり、失われたものはいつまでも自分たちのものであり続けると宣言しているという点で、これは第一級の青春小説なのだ。逆説めくが、青春のただ中を生きている人間たちのことを書いてもそれが青春小説の傑作になることはめったにない。生きることに夢中になっている人間の心理をリアルタイムに描いてもさして面白くもならないのが常なのは、登場人物が自らを省みてうじうじ考えるというプロセスが欠けているからだろう。「正しい」青春小説とは、自分の青春が終わってしまったことに気づいた語り手が、自分の生きてきた軌跡を幾分センチメンタルに振り返るものではないか。失われた青春についての美化された言説を生産する小説としての青春小説。アメリカの現代小説には、そんな青春小説の傑作がいくつもあった。『偉大なるギャッツビー』にはじまって『ライ麦畑でつかまえて』『さよなら、コロンバス』『走れ、ウサギ』等々、枚挙にいとまがない。パワーズの『ガラテイア2.2』もまた、こうしたアメリカ青春小説のキャノンとなるだろう。

『アウステルリッツ』:「かのように」の怪物

 「偉大な文学(literary greatness)はまだ可能か?」二〇〇一年に自動車事故で亡くなったイギリス在住のユダヤ系ドイツ語作家W・G・ゼーバルトを語るにあたって、スーザン・ソンタグはこう書き出している。なにを大仰な、というのが大方の反応だろう。ソンタグも齢七十になんなんとして耄碌したか。事実、その時点でゼーバルトが発表していた『眩暈、感情』(九〇年)『移民たち』(九二年)『土星の環』(九五年)という三つの長編について論じたこの短いエッセイ(『タイムズ・リテラリー・サプルメント』二〇〇〇年二月二十五日付)は、所々にソンタグらしい鋭い切れ味を感じさせるものの、ゼーバルトの作品がその一つの回答だ、とするそもそもの主張については最後まで説得力のある根拠は示されない。こんなふうに大上段に構えた書き出しの文章がたいていそうであるように、それは希望的観測にもとづいた思い込みをただ反復するだけで、「偉大な」ヨーロッパ文学の伝統が引き合いに出され、この作品にも似ている、あの作家にも似ている、といった不毛な類比がなされて終わっている。

 だがゼーバルトの遺作となった『アウステルリッツ』(〇一年)を読むと、ソンタグの言いたかったことがなんとなくわかるような気がする。いや、すでにヨーロッパ文学という制度に身も心も捧げているアメリカ人ソンタグよりも少し距離が離れている分、何がゼーバルトの作品を(ヨーロッパ的な意味で)偉大にしているのか、日本人の私にはかえってよくわかるような気さえする。一言で言ってしまえば、それは構築とか形式というものに対する二律背反的な意識と、時間と記憶との関係を探る主題を持ってきたことだ。しかも『アウステルリッツ』ではこの二つが結びつけられて語られる。

 アウステルリッツという奇妙な名を持つ建築史家とアントワープ中央駅の待合室で出会った語り手が、リエージュ郊外の工場地帯、ブリュッセルの最高裁判所と、偶然の邂逅を重ねていきながら、彼が辿った数奇な半生を知るようになる、というのが『アウステルリッツ』の基本的な筋である。語り手の私が自らについて語るところは少なく、小説の大半はアウステルリッツの語りが占める。とはいえ、アウステルリッツの語り—ですます調/私の語り—である調、と書きわけられている邦訳とは異なり、原著では二人の語りはもっと判別しがたいものになっていただろう。実際、主人公がアウステルリッツの物語を語るさまは、アウステルリッツその人が取り憑いているかのようであり、(何度かの偶然の邂逅もふくめて)アウステルリッツとは語り手の【ルビ開始】分身(ドッペルゲンガー)【ルビ終了】開始ではないかとすら思えてくるのである。

 以前の三作品の読者であれば、このような印象はさらに強まるはずだ。ゼーバルトがその生涯に発表した四つの長編においては、同じ主題が少しずつ形を変えて反復され、登場人物もどこかしら似通っている。残念ながら邦訳は『アウステルリッツ』以外では柴田元幸による英訳からの重訳で『土星の環』第一章が発表されているだけだが、そこでも極度の精神的疲労によって身体に変調をきたし幻覚を見る国外離脱者、知の作り上げる壮大な伽藍に魅了されその記述に一生を費やす研究者といった、お馴染みの登場人物に出逢うことができる。彼らはみな、アウステルリッツのようであり、語り手のようであり、あるいはゼーバルト本人のようである。

 とはいえ、主人公を建築史家としたことで、それまでゼーバルトが書きたかったモティーフはこの『アウステルリッツ』でよりくっきりと浮かび上がってきたように思える。柄谷行人が『隠喩としての建築』で書くように、西洋固有の「【ルビ開始】建築(コンストラクション)【ルビ終了】への意志」のもと、自然に負うことのない秩序や構造を確立しようという営みは、形式化の徹底を推し進めることで内なる矛盾をさらけ出し瓦解する。冒頭でアウステルリッツが語る、要塞の建設はまさしくその隠喩となっている。あらゆる外敵の侵攻を防ぐために、周囲に次々に防御設備をめぐらしていき、その結果同心円状にとめどもなく拡大していくが、そうなればなるほどかえって敵をおびき寄せることになる。かくして、一八三二年オランダ軍によって占拠されたアントワープ要塞はフランス軍によって破壊されるが、人々は要塞建設の愚を悟るどころか、いっそう外へ拡大しなければならないと外郭の建設をはじめ、ベルギー全土の軍隊をもっても防備しきれないような城郭を築き上げる。第一次世界大戦勃発直前、最後に完成したブレーンドンクの要塞は開戦後数ヶ月足らずで市と国の防衛にはまったく役に立たなかったことが判明する。

 「途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している、そのことを私たちは本能的に知っている」(一八頁)と語るアウステルリッツはしかし、自分にも同じ運命が降りかかるのを知ることになる。三十年近く続けてきた建築史と文明史についての自分の研究、何千頁にも積もったメモやコメントを体系立てて整理しようと大学の職を辞した彼は、草案のほとんどが使いようのない、誤り偏っているものだということを発見する。やがて彼は自分の思考を的確に文字として書き表せなくなり、さらに読むことさえ困難になる。建築物についての自らの認識を言語によって構築しようとする彼の試みは、その壮大さゆえに、要塞同様自潰する。

 だがここで物語は更なる展開を見せる。原因不明かに思われたその症状は、チェコのユダヤ系家庭に生まれ育ったアウステルリッツが、ナチスドイツの侵攻に際してイギリスの家庭に養子として送られたという自らの過去を記憶の底に封印してきたゆえに生じたのだった。手がかりを求め故郷プラハに赴いた彼の脳裏に、これまで全く思い出したことのない、幼年時の記憶が鮮やかに蘇る。「時間などというものはない、あるのはたださまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ」(一七八頁)彼はそう感じる。

 意識において時間は空間的に構築されるが、無意識の記憶はそうした単線的時間とは相容れない。『失われた時を求めて』『ユリシーズ』をはじめとする二十世紀ヨーロッパの「偉大な文学」はいずれもこの主題を扱ってきた。だが空間モデルを否定するのではなく、「高度の立体幾何学」であれば記述可能だと考えるところにゼーバルトの「構築」に取り憑かれた業の深さ、「構築」を拒絶しつつ「構築」を求める態度がよく出ている。本文中に度々挿入される写真や図版もまた、「読みとる」速度と「見てとる」速度の本質的な相違によって、読者の内なる時間の流れを攪乱しようという試みなのだろうが、読み進めていくにつれて、一つの統一されたイメージが浮かび上がってくるのを押しとどめることはできない。結末で、今度は父親の消息を求めてパリに赴くというアウステルリッツとは対照的に、ブレーンドンクの要塞を再訪する語り手=ゼーバルトは、明らかに物語を収束させようとしている。こうして、物語は緊張感を孕んだまま、内破寸前のところで終わる。

 この作品が「偉大な」ヨーロッパ文学の系譜に属することは間違いがない。さすがに森鴎外は洋行帰りの歴史家五条秀麿に「かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている」と言わせているが、「生成」を拒否する大抵の日本文学に慣れた者にとっては、作品に通底する、半ば自覚的な狂気である「建築への意志」に違和感を覚えることもあろう。だが、それも含めて『アウステルリッツ』とは、きわめてヨーロッパ的な小説の快楽を味わうことのできる作品である。

『ミドルセックス』:叙情の対位法

 前作『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を読んだときにもそう思ったのだが、ギリシア系アメリカ人作家ジェフリー・ユージェニデスの日本語にして七百頁を超す大作『ミドルセックス』の最初の読後感は「うーん、うまいなあ」というものだった。もちろんこれは単純な褒め言葉ではない。いかにもアメリカの大学の創作科で学んできました/教えています、というような、読者を飽きさせないためのさまざまなテクニックを駆使して書かれた作品を読んで、少し考えさせられてしまった、ということでもある。

 たとえば『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』では、思春期特有の、とくにこれといった動機のない自殺という主題を扱うにあたって、ユージェニデスは少女たちと同じ学校に通う「ぼくら」という少年の(複数の)語り手を設定する。そして異性に関心を抱いてはいるものの、それが自らの性欲に端を発するものだとはっきりと自覚することがまだできないでいる少年たちが、性的な成熟度という点では彼らにまさる美しい五人姉妹の奇矯な言動にいかに惹きつけられていったか、それが嵩じて彼女たちのちょっとした立ち居振る舞いにすら心を奪われるようになっていったかを、大人になった「ぼくら」がほろ苦くも甘美な思い出として語るという外枠の構造を導入する。そのようなお膳立てを整えることで、年頃の少女たちの繊細だが自閉的な感受性を今ひとつリアルなものとして受けとめられない(おそらく主として男性の)読者も、自分が十代半ばごろに感じた、異性に対する憧憬を思い出し、作品に引き込まれることになる。(余談だが、原題に戻して公開された映画『ヴァージン・スーサイズ』は、複数の少年の語り手というこの外枠の構造をうまく活用できていなかったように思う。監督ソフィア・コッポラは美しい映像と印象的な音楽を多用する、いわゆる「雰囲気に頼った」映画作りをしており、その結果、姉妹たちがいかにして自殺するまでに至ったかを、ただぼかして語っているだけ、という印象を与えてしまう。理由のはっきりしない自殺だからこそ、この外枠の構造をはっきり示す必要があったのだ。)

 生まれたときから女性として育てられた主人公カリオペが、十四歳のときに男性の遺伝子型(と停留した睾丸)を持っていることが判明し、その後カリーと名乗って生きてきた半生を四十一歳になった本人が語るという設定の本作『ミドルセックス』でも、同様のテクニックが用いられる。自らに生じた遺伝子の変異の原因を祖父母の代まで遡るという名目で、語り手は自らの半生を語る前に自分たち一族の歴史を語る。生物学的な性決定のメカニズムの複雑さと性自認をめぐる混乱という、どちらかといえば読者を選ぶ題材を核に据えながら、アメリカ現代小説の王道とでも言うべき、移民としてこの国にやってきた自分の祖先の苦難に満ちた生活とその後のささやかな成功および没落という別の物語とそれを接合することで、ユージェニデスは作品をより一般受けするものに仕上げているのだ。

 そしてこのいわば序奏にあたる部分が長いのもこの作品の特徴である。かつてはオスマン帝国の首都であり、一九一九年にはじまったギリシア・トルコ戦争によってギリシアの領土となった小アジアの町ブルサ近郊の村、ビシニオスで生まれ育った姉弟デズデモーナとレフティーが、お互いを異性として意識するようになる。だが彼らは一九二二年のトルコ軍の再侵攻によって故郷を追われ、いとこ夫婦を頼ってデトロイトへ向かう船ジュリアに乗り込む。当初二人は全くの他人同士として振る舞い、やがて偶然の邂逅から親密になったカップルを装って航海途中に結婚式を挙げる、ここまでが第一部。デトロイトにやってきたデズデモーナとレフティーが、いとこのスーメリナとその夫ジズモの家に居候し、やがて二組の夫婦にそれぞれ生まれた子供ミルトンとテッシーが結婚し、「わたし」を受胎するまでが第二部。そのところどころに国務省職員としてベルリンの米国大使館に勤務する語り手の「わたし」の現在の生活と、名前から日系とおぼしきアメリカ人アーティスト、ジュリー・キクチとの出会いについての描写が挿入されるが、この「わたし」が誕生するのは第三部になってからである。そして印象的な「わたしは二度生まれた。最初は、一九六〇年一月、デトロイトでは稀なスモッグの晴れた日に、ゼロ歳の女児として。そして、次は、一九七四年八月に、ミシガン州ペトスキー近くの救急処置室で、十代の少年として」という第一部の書き出しが示す、5−α−リダクターゼ欠乏による男性偽半陰陽であるという診断が下されてからの主人公の半生は、最後の第四部でようやく語られるにすぎない。しかしそれゆえに、読者は主人公の特異な生/性をより大きな物語の一つの断片として無理なく受け入れることができるようになる。

 しかもこの三世代にわたる一族の歴史は、同時に二十世紀のアメリカ、とりわけデトロイトという自動車産業で栄えた町の【ルビ開始(クロニクル)】年代記【ルビ終了】としても読めるようになっている。デトロイトにたどり着いたばかりのレフティーが、フォード社の組立工として働いたり、一九二九年からはじまる大恐慌のせいで悪化した家計を助けようと、デズデモーナが初期のネーション・オブ・イスラムで絹織物を作ったり(しかも、その経歴がいまだに謎につつまれたままの創立者W・D・ファードが、自動車事故で死んだと思っていたジズモであったといういかにも小説ならではの設定もある)することからはじまり、一九六七年のデトロイトの人種暴動とその後の強制バス通学をはじめとする人種融和政策、七〇年代のラディカリズムの台頭など、ある程度年齢のいったアメリカ人にとっては懐かしい事件や出来事が次々と語られる。

 けれども映画脚本家を一時めざしたこともあるというユージェニデスの、こうしたサービス精神たっぷりな仕掛けばかりに目がいってしまい、その背後に通底する独特の叙情性を十分味わえないことがあるとすれば、それは読者にとって不幸なことだろう。物語の語り口のうまさもさることながら、ユージェニデスの本領は、神は細部に宿ると言わんばかりの精緻な想像力によって、ほんの端役にいたるまで、あらゆる登場人物を生き生きと描き出し、さらには複数の主役たちの感情のすれ違いとそれにもかかわらず互いに理解を続けようとする努力を、悲しみとも諦めともつかぬ淡い感情に染め上げて読者に提出するところにある。たとえば十四歳のカリオペの性をめぐって、父親、母親、カリオペ本人そして医師でインターセックスについての世界的権威ピーター・ルースの解釈はそれぞれ異なり、対立する。しかしたとえ彼らの間の認識の差異は埋めようがないとしても、語り手である現在の「わたし」はそれらを理解し、なんとか受け入れようとする。

 もちろん、異なる価値観への共感と理解はアメリカ文学に一貫して流れる主題だし、複数の現実の対立と共存はモダニズムが取り憑かれていた主題だ。だが『ミドルセックス』の登場人物たちは、お互いの異なる現実を理解したつもりになるのでも、あるいは最初から理解しようとしないがその存在を認めるというのでもない。ある種の違和感を残したまま、それを受け入れる。その一方で、自分の現実認識も変えずにあわせて抱え込む。それは対位法で書かれた音楽において、ときどき不協和音を鳴らしながら複数の声部が展開するのに似ている。そしてこの作品におけるもっとも微妙な対位法は、語り手における、女性としてのカリオペと、男性としてのカリーが織りなすそれだ。「わたしの脳は男性化しているにもかかわらず、語らなければならない物語、つまり遺伝的な歴史には、生来の女性的な迂遠さがつきまとっている」。

 この大作を読み終えたあとに、もっとも印象に残る【傍点開始】べき【傍点終了】なのはこの叙情の対位法である。小説的な楽しみに満ち満ちた一つ一つのエピソードは、最後には忘れ去られ、沈黙をもって答えることしかできない叙情の対位法のずっしりとした重さだけが残る。おそらくそれがこの作品の(他の多くの偉大な長篇小説と同様)正しい読まれかたなのだろう。だが実際には、読者は構成のあざとさを意識してしまう。作者の手腕によってまんまと最後まで読まされてしまった、そういう感想をどうしても抱いてしまう。小林秀雄が引用した『徒然草』の一節ではないが、「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ」ことをユージェニデスが知っていれば、もっと素直に感動できたのに、と思うのは望みすぎだろうか。

デフレの時代のローファイ小説

岡崎祥久の小説には、二つのモードがある。戯作者めいた洒脱な語り口で日常の出来事を淡々と描写していくモードと、いささか時代遅れの感なきにしもあらずではあるが、ひたすら自己の深部に沈潜し、そこに生起する感情の揺動の一切を言葉に変えていこうとするモードと。デビュー作「秒速一〇センチの越冬」以来、一作ごとにスタイルを変えてきたようにも見える岡崎の小説は、じつはこの二つのモードをどのように混在させ、あるいは一方を排除するかという試行錯誤の結果に他ならない。作者の内には、「お前の日常生活にどんな事件が起ころうと、それは大したことじゃないんだから、深刻ぶるな」という、(村上春樹にも通ずる)ニヒリズムと気取りと気負いがないまぜになったような性向と、そういうポーズをとる自分を嫌悪し、もっと真面目に人生を見据えて生きるべしと命ずる古風な倫理観とが同居しているように思える。そして岡崎は太宰治と違ってこのような自我の分裂を分裂として読者に示すほど器用ではなかった。岡崎のいくつかの小説に見受けられる、一人称と三人称の語りの交替は、どちらか一方の極にすり寄ろうとしてははじけ飛ぶ、作者の精神の往還運動の表れに他ならない。
 ところが『南へ下る道』に収録された表題作および「醜男来たりなば」で、岡崎はうじうじ悩む自己を微細なタッチで描くのをすっぱりあきらめて、もう一つの持ち味である軽みを前面に出してきた。この二つの中篇は、小島伸一と和子という若いカップルが共通の主人公として登場し、時系列的にもつながった連作となっている。「醜男来たりなば」では、伸一の友人で、しばらく北海道に住んでいた「醜男」が東京に戻ることを思い立ち、伸一の住むアパートをめざしてオートバイで南下する、というエピソードが、東京の郊外で平凡でささやかな暮らしを営む夫婦のエピソードとが交互に語られる。醜男と伸一は数年来音信不通であったが、伸一は結婚した後も独身時代と同じアパートに住み続けていたため、醜男は彼らの家を探し当てることができたのだ。三日ほど六畳間に三人で寝る生活を過ごした後、彼はまた出ていく。「南へ下る道」は、前作の終わりで勤めていた近所の電気店をリストラ名目でクビになった伸一と、パートをやめた和子が、伸一の親から一時的に預かった軽自動車に乗り込み、国道一号線、二号線、三号線のみを使って九州まで行く道中が語られる。
 どちらの作品にもロードノベル的要素が含まれているとはいえ、このジャンルにありがちな自己探求の旅とその終わりがセンチメンタルに描かれたりすることはない。それどころか、放浪か定住か、自由か秩序かという緊張関係は一度も表面化せずに、きわめて曖昧なかたちで解決が図られる。「醜男来たりなば」は、醜男の出立を見送った伸一が部屋に戻り、中古マンションの値下がりを伝えるニュースを和子と一緒にぼんやりと見ているところで終わる。伸一が勤め先を解雇された以上、ローンを組んで中古マンションを買うという二人の将来設計は遠のき、「定住」という結末は再び見えなくなったわけだから、このニュースはひどく皮肉に聞こえるはずなのだが、二人はそうとっていないようである。「南へ下る道」の終わりでは、三号線の終点からさらに下って西鹿児島駅についた二人が、ここら辺りで電気屋を開業するという夢とも現実ともつかぬ話をする。
 つまり、ロードノベルというコンベンションは一種のしゃれとして機能しているわけだが、それは主人公たちがデフレの時代のさまよえる小市民という新しい社会階層に属しているからでもある。終身雇用制の神話の崩壊が広く世間で喧伝されるようになった現在、将来への漠然とした不安は抱えながらも、二九インチの大画面テレビとMDステレオのある生活を営み、中古マンションを買うことを夢見るだけの蓄えもあり、いざというときに頼る親も健在である二人は、小市民的心性を持ちながら浮き雲のような暮らしをしている。常識人ではあるが、インテリにふさわしい深い思想などは持ち合わせず、その場の気分で生きている。
 とはいえ、小市民が感じる日常生活の鬱屈と倦怠というのは岡崎のデビュー以来の一貫したテーマだし、退屈な日常からの脱出としての小旅行という筋立ても「ニジイロのセカイ」(「文學界」二〇〇一年二月号)などですでにお馴染みのものだ。だがこの二篇において、作者は一人称の語りを全く用いないことで、それまでの作品にあった重苦しさややりきれなさを滑稽さと中和させた。パン屋でパートとして働いている和子がレジを受け持つのを見計らって買いに行き、六〇円の玉子ドーナツをおまけしてもらっていた伸一が、ある時後ろに並んでいた何も知らないお節介な主婦の口出しのせいでレジの「ミス」を指摘され、六〇円払うことになる、とか、宿代を安くすませようとラブホテルに泊まったはいいが、早い時間に入ったために休憩料金と宿泊料金を二重に支払うことになり憤慨するといった、せせこましいが、登場人物たちにとって切実なエピソードは、三人称で語られることによってユーモラスなものとなる。
 それはこの作家が資質として持っている目線の低さも関わっているのだろう。だがそれはたとえば小島信夫の目線の低さとは趣を異にする。「社会的敗残者としての私」という小島の小説の語り手の自己規定はどこか一種のやつし芸というところが否めなかったが、岡崎の小説の登場人物たちは社会的成功などというものははなから望めないものだととうの昔に悟っているか、最初から考えもしていない。彼らにとって、未来は現在のたんなる延長であり、何かが劇的に変化することはないのだ。一人称で語られていたときはそうした諦念は閉塞感にもつながっていたが、三人称で他人事のように語られると、あっけらかんとして心地よい。それは右肩上がりできた日本の経済成長が終焉を迎えた時代の空気を的確に描いているからだ。「日常をまったり生きる」ことが、気の利いたスローガンなどではなく、当たり前のことになっている世代の弛緩した感覚。このポストバブルの時代にあっても高揚した調子で「勝ち逃げ」組は誰か、家族の崩壊のあとに何がくるのかと議論する三十代後半〜四十代の元気なオヤジたちを後目に、岡崎は新・庶民の暮らしをひっそりと描くことに成功したのではないか。