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「怪しうこそ物狂ほしけれ」:語り部=ヒステリー患者としての樋口一葉──井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』論

夏子 ……これからは紙の上に筆の力で婦人の宿を建てるしかないのよ。だって世の中はあれはだめ、これはするなというだけで、わたしになにもやらせてくれそうもないもの。これをしたい、あれをしたという欲はみんな捨てるしかないのよ。そしてたった一つ欲をのこして、その欲を成就したいと願うばかり。
花蛍 その欲って、筆の力で婦人の宿を建てるってことね。
夏子 (頷いて)もう心は死んでしまっているの。ただ、墨をすり筆を動かすために身体をこの世界においてあるだけ。
花蛍 なんてまあ厭世的で、すばらしい考え方なんでしょう。やはり盆礼にうかがってよかった。(『頭痛肩こり樋口一葉』『井上ひさし全芝居 その三』五六五頁)
 「二十一歳の若さで自分に戒名をつけたところに、あなたの文学を解読する鍵がある。あなたは生きながら死んでいたのですね。だからこそこの世がよく見えたのでしょう」自ら聞き手に扮した架空インタビュー「樋口一葉に聞く」(文春文庫『樋口一葉に聞く』所収)で、井上ひさしはこう述べる。同じ本にも収録されている前田愛との対談「一葉についての『噂』」では、井上はふたたびこの説を持ち出し、前田もそれに応じて「一葉という人は絶えずこの世だけではなくて……あの世へ自分をずらしたところから明治の社会を見つめ返している」と語る。両者が言及しているのはいわば、現実から一歩引いた観想者として樋口一葉を捉える立場であると言ってよい。だがその後に続く前田愛の発言も読み落としてはならない。
【引用開始】処女作の「闇桜」、【傍点開始】これはあまりうまい小説じゃないけども【傍点終了】、ヒロインが恋患いで死の床に横たわっていると、夕闇の桜がはらはら散りかかってくる。【傍点開始】これはたしかに発想からいえばどうもいただけませんが【傍点終了】、でもああいうところで、なにか生の世界からずれた視点を早い段階でもっていたような気がするし、それから【傍点開始】僕はあまり好きじゃないけれども【傍点終了】、丸山福山町へ移ってからは自分でも近い将来の死というものを予感して、なにか悟ったようなところがありますね。ところが、【傍点開始】あまりきれいに悟ってしまうと小説などは書けるわけのものじゃない【傍点終了】ので、その微妙なあわいのところで、先ほど井上さんのおっしゃった、和田[芳恵]さんのいう奇蹟の期間が成り立ったのじゃないかなということを、このごろとくにしみじみと感じるのですよ。(傍点は引用者)【引用終了】
 つまり前田は、樋口一葉が常日頃から死あるいは来世といったものを意識していたという点では井上に同意するものの、同時にそのことは彼女の作品に決してプラスになっていない、むしろ悟りすましたような態度が表に出ず、断ち切れない現世や生への執着が示されるときに『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』といった傑作が書かれている、という認識を示している。たとえばそれは『にごりえ』においては、お力の以下のような述懐と、彼女の最期を語る作者一葉の叙述の鮮やかな対比によく表れている。
【引用開始】 お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに【ルビ開始(からてんぢく)】唐天竺【ルビ終了】の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だ……【引用終了】
「靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處」へ行きたいと切望しつつも、かつての情人源七に無理心中を迫られたお力の最期は「切られたは【ルビ開始(うしろげさ)】後袈裟【ルビ終了】、【ルビ開始(ほゝさき)】頬先【ルビ終了】のかすり疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ない」と語られる。死への憧憬と生への執着とに引き裂かれた両義的な存在のありかたこそが、一葉とその作品の登場人物の魅力だと前田は説いているように思える。
 もちろん、ここで問題なのは、井上と前田の主張のどちらが一葉文学の本質を正しく捉えているか、ということではない。あるいは、そもそもの井上の目のつけどころにケチをつけて、戒名とは死者への諡り名のようなものではなく、もともと仏道修行の途上にある人に与えられるものなのだから、一葉が「一刻もはやくその執着心を断って成仏解脱をとげよ」と日記に書きつけ自らに戒名を与えたといっても、それは悟りをひらいて仏陀(すなわち覚者)になりたいという彼女の気持ちの表れであって、必ずしも死を早く迎えたいと思っていたわけではない、と指摘することでもない(対談の中で前田は井上のこの誤解に気づいているが、あえて言及せずに、「悟り」と言葉を巧みに言い換えることで話がつながるようにしている)。大切なことは、井上が『頭痛肩こり樋口一葉』を書くにあたって、人一倍死を身近に感じていた一葉は「生きながら死んでいた」「だからこそこの世がよく見えた」と考え、そこから作品の世界を作り上げていったという事実である。さらに、これから見ていくように、井上のこのような見立ては作品全体を支配しているわけではない。前田の指摘するような、悟りきれずに現世に執着し、あがき苦闘する一葉もちゃんと描かれている。本稿の目的は、作者が考えていた観想者としての一葉が、『頭痛肩こり樋口一葉』という作品が書かれる中でどのように変貌を遂げ、語り部としての一葉に変わっていくかを見ることである。
 井上ひさしは小林一茶、宮沢賢治、夏目漱石、松尾芭蕉、魯迅、石川啄木、太宰治といった文人についての評伝劇を書きついできた。といっても、それは気分的な芸術至上主義のもと作者を顕彰しようとしたり、一代記の名を借りてよく知られたエピソードをつなげていく類のものではない。『イーハトーボの劇列車』のように、作品の登場人物を劇中に登場させて作者と会話を交わさせたり、『人間合格』のように、作者の周囲にいた比較的無名の人物たちに焦点をあて、彼らの目に映る作者のすがたを描くといった手法を使って、対象を描きつつ批評の俎上に載せる。『泣き虫なまいき石川啄木』において、「事実を追ふより啄木の真実を探し求めようといふのが、われわれの主たる関心事」であるとト書きに記す井上にとって評伝劇とは、諧謔味あふれた異化によって、よく知られた人物についての事実ではなく詩的真実を描く装置だとひとまず言うことができる。
 こうした異色の評伝劇を書き続けてきた井上だが、中でも一九八四年四月、東京・紀伊国屋ホールでこまつ座の旗揚げ公演として初演された『頭痛肩こり樋口一葉』はとりわけ特異な作品といえるだろう。まず目につくことは、歌人中島歌子の私塾萩の舎での精進ぶりや半井桃水との恋愛などのような樋口一葉本人の物語はほんのおしるし程度に語られるだけであり、またその家族である一葉の母【ルビ開始(たき)】多喜【ルビ終了】と妹邦子の物語も井上が言うほどには語られないことである。実在もせず一葉作品の登場人物でもない、幽霊【ルビ開始(はなぼたる)】花蛍【ルビ終了】の「恨み探し」の物語が大きく扱われているが、このような構造はほかの評伝劇には見られない。まずそのことから考えてみよう。
 いったい井上はなぜ、樋口一葉の生涯を語る際に、一見したところまるで無関係な幽霊の仇討ち物語を組み入れたのだろうか。吉原の女郎であった花蛍は、大工の佐助と二世の契りをかわし、佐助の親方が工面してきた二百五十円で身請けされることになる。ところが佐助は途中で財布を落とし、悲嘆のあまり神田川に飛び込み、花蛍は絶食してあとを追う。こうして幽霊になった花蛍は、夏子のところにやってくる。彼女が花蛍を見ることができるのは、入水自殺をはかろうとした過去があるからで、「一度あの世へ踏み入れたことのある人」だからだ、と花蛍は説明する。したがって幽霊の導入は「生きながら死んでいた」と井上が考える一葉の特質を表すことになる。花蛍と一葉は以下のような会話を交わして、そのことを観客に知らしめる。
【引用開始】夏子 ここは実際妙なところよ。北からは人を焼く匂い。東からは吉原女郎衆のお白粉の匂い。また、すぐそこの大音寺前の四ツ辻では火葬場へ往復する葬式の行列が一組か二組、きっと一休みしている。そしてその葬式の行列を蹴散らすように走り抜ける吉原がよいの人力車。ここは【ルビ開始(このよ)】明界【ルビ終了】と【ルビ開始(あのよ)】幽界【ルビ終了】とのつなぎ目ね。
花蛍 ええ、ここでは生と死とが仲よく重なり合っているんですよ。わたしがここに住みついたのもそこが気に入ったからでした……(『井上ひさし全芝居 その三』五六三頁)【引用終了】
 さて花蛍は生前の記憶を喪失しており、身許が判明するのは夏子が調べたからである。夏子の調べで佐助の財布を拾ってネコババしたのは酒井ステという婆さんだとわかるが、花蛍が彼女のところに化けて出て行くと、孫娘を高利貸しの借金のかたにとられるので仕方なくネコババしたという。その借金は呉服屋を営んでいたステの息子が、尾形ぶんという三味線の師匠に入れあげたあげく身上をはたいてしまったのがもともとの原因だと知って、尾形ぶんのところに化けて出て行くと、彼女は幼なじみの恋人の大工の棟梁を男にしてやりたかったからだという。その大工の棟梁はお茶の水橋の架橋工事に参加するために、東京府土木局の役人の奥さんにワイロを送ったのだった。そこでその奥さんのところに化けて出て行くと……といったふうに、「次の【ルビ開始(わる)】悪【ルビ終了】に当ってみると、さらに向うに【ルビ開始(わる)】悪【ルビ終了】がいて、もう一つ先にも【ルビ開始(わる)】悪【ルビ終了】がいて」「因縁の糸でみんな鎖のようにつながっている」。結局、花蛍は恨みを抱くとしたら、「酒井ステという婆さんからさかのぼって皇后様までその全部を恨まなくちゃならない。これはもう世の中を丸ごと恨め、というのと同じ。いくらなんだって世の中全体に取り憑くなんてことはできやしない」ので諦めたと夏子に語る。
 罪の連鎖という主題は一葉の作品にも通底するものであるが、花蛍の恨み探しでは、人が罪を犯すのは貧しさや階級の壁のせいではなく「世の中全体に張りめぐらされた因縁の糸の網」のせいだ、ということになる。ところがそれを聞いた夏子は「わたし小説で世の中全体に取り憑いてやったような気がする……」「わたし小説でその因縁の糸の網に戦さを仕掛けてやったような気がする」と花蛍に向かって言う。一葉と花蛍の立場の違いがもっともはっきりするのはこの場面だろう。すなわち、一葉は悟ること、世の中の不条理をそのまま受け入れることを拒絶する。一方で花蛍は、恨みを抱いていたはずなのに、この世がよく見えるようになるとその恨みをはらすことを諦めてしまう。明治二十三年(一八九〇)から明治三十一年(一八九八)にかけて、それぞれの年の盆の十六日に起きた出来事を描くこの作品では、場が進むにつれ登場人物たちが次第に死んで幽霊になっていき、最後には邦子一人だけが残ることになるが、死者たちはいずれも生前のわだかまりを忘れ、互いに許し合うようになる。花蛍はいわばそうした優しい死者の代表として描かれるのだ。だがこのような寛恕の構図は井上作品には、あるいは井上作品を愛する観客にはふさわしいとはいえ、一葉作品に登場する我執に取り憑かれた人物たちには似合わない。その間隙を埋めるために、幽霊花蛍の物語が挿入され、大きく取り扱われることになったのである。
 花蛍の失敗に終わった復讐物語に次いで劇中でたっぷり語られるのは、士族の妻で、多喜が乳母として奉公していた関係で付き合いのある【ルビ開始(いなばこう)】稲葉鑛【ルビ終了】と、一葉の亡父の同僚の娘で、兄哲太郎とともに開明小学校を経営する中野八重の身に起きた出来事である。鑛の夫は士族の商法を地でいき商売を何度か替えたあげく死んでしまい、鑛は再婚することになる。一方、八重の兄哲太郎は、米の値段があがっていることに憤って渋沢栄一と大倉喜八郎に決闘状を送りつけたことから、逮捕されたのち、市ヶ谷監獄で餓死する。八重はその裁判を行った東京裁判所の春日判事の妻になって玉の輿にのったものの、その妾が子供を生んだことをきっかけに邪険にされるようになり、遊郭に売られてしまう。お八重改め双葉屋のお角となって新開地で働くようになった彼女は、それとは知らずに双葉屋にやってきた鑛の夫を骨抜きにしてしまう。鑛、その夫、八重の三角関係には、『にごりえ』におけるお初、源七、お力の関係があてこまれ、先ほど引用したお力の台詞も八重の台詞として語られる、というような仕掛けはあるものの、彼女たちもまた架空の存在であり、その言動によって一葉の性格や生活が浮き彫りにされることはないかのように思われる。
 井上が『頭痛肩こり樋口一葉』において一葉その人をあまり描かず、その周囲ばかり描いた理由はいくつか考えられるだろう。「樋口一葉に聞く」で井上は「私は男と女との関係にはまったく興味がないのです。その証拠に、これまで一編も恋愛小説を書いたことがありません」と告白し、さらに一葉に「小説家としては致命的な欠陥ね。婦人がこわいの」と問われると「かも知れません。あるいは女性になんの夢も抱いていないというのか。自分もよくわかりません」と答える。一葉についてもっとも多く語られる恋愛遍歴について深く立ち入ることをしない、という自らに課した禁じ手のために、一葉本人を語る材料に事欠いた、ということはあるかもしれない。さらに「一葉についての『噂』」で、井上は自らも一時期一葉に「狂った」ということを認めつつ、それは当時の好子夫人や出演予定の女優たちがみな「一葉体験がある」ことを知り「いったいなぜ女性は一葉にこんなに夢中になっているのだろう」と不思議に思ったことがきっかけであると語り、また一葉についての評伝、作家論、作品論について「熱っぽくて面白いものが圧倒的に多い」「どなたも一葉に、学者の域をこえて、危険なほど肩入れしておられる」と解説してみせる。井上はおそらく、ある時点で戯作者特有の本能から「危険なほど肩入れ」しては自分の一葉像を描けない、ということを見極めたのだろう。しかし同時に、醒めた目で一葉を突き放して書いたとしても、観客の共感を得られないばかりか、薄っぺらい造形で上演に耐えられるようなものではなくなる、と考えたのかもしれない。
 あるいはほとんど同じことだが、悟りすましたように見える人間の虚偽を暴く、偉いとされている人間の意外な愚かさ加減を明らかにする、という井上が評伝劇でしばしば用いる手法が、一葉には適用できなかった、ということもあるはずだ。『泣き虫なまいき石川啄木』についての自作解説で、啄木は自分を甘えさせてくれていた人々が明治四十三年後半ごろから次々と離れていったことから『実人生の白兵戦』を見いだすようになる、と井上は述べているが(「前口上」『the座』第七号、『悪党と幽霊』所収)、そのような観点からすれば一葉ははじめから「実人生の白兵戦」を戦っていたのであり、茶化す余地などそこにはなかった。
 だがいちばん重要なのは、一葉に自らの物語を語らせないことによって、一葉を聞き上手に仕立て上げたことではないか。そうすることで、男の身勝手な行動や(その男たちが作り出した)社会の理不尽な構造によって振り回される女たちの身の不幸せに同情し、女たちのための、historyならぬ彼女の物語(her-story)を紡ぎだす、語り部としての一葉という、一種民俗学的な発想のもとで井上が打ち出した一葉像が示せることになる。さらに言えば、観想者としての一葉という、井上の当初の構想は、アリストテレス=キリスト教的な系譜ではなく、小林秀雄の論じる兼好法師の系譜に位置づけることによって、語り部としての一葉と接続することになる。「兼好は、徒然なるままに、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、目が冴えかかって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、『怪しうこそ物狂ほしけれ』と言ったのである」(「徒然草」)。
 井上は一葉を、この「物狂ほしさ」が身体化された存在として描く。すなわち、頭痛肩こり樋口一葉。ヒステリーの症状として、まず頭痛や肩こりがあらわれ、熱が出て、胴震いが止まらなくなる。花蛍が恨み探しを諦めたといい、一葉がそれに対して「わたし小説で世の中全体に取り憑いてやったような気がする」と応えるさきほどの場面は、ヒステリーに陥った一葉の幻視という仕組みになっている。おそらく、「ものが見える」ことによる亢奮が身体にまで及んだのか、身体が亢奮状態になってものが見えるようになったのか、という順番はそれほど重要ではない。ここで示されているのは、身体化された認識のありようである。女たちの不幸をわがこととして受け止め、語り継ぐ語り部は、すでに悲しみのために「心は死んでしまっている」のかもしれない。だが「墨をすり筆を動かすため」の身体は残っている。身体が直接悲しみや苦しみを伝える、そんな語り部として、井上ひさしの一葉は存在している。