前田司郎「愛が挟み撃ち」『文學界』2017年12月号

最初の1/3ぐらいは天才ですね。ほぼ言うことなしです。
そこからはしかし、息切れします。
具体的には、喫茶店の前での交通事故の場面、あそこは嘘くさいです。
そもそも、前田さんの書くことは作り物なのですが、その作り物を作り物と思わせない筆力が持ち味なのに、あそこではその筆力が十分発揮されていない。
セジュウィックが生きていて日本語を解したら、これこそ男同士の絆というだろう主題も、話が進むに従って嘘くさくなる。
最後の一文に至っては白けました。こんなオチを面白がって書いているようじゃ志が低い。

とはいえ、全体としては「良くできている」小説だと思います。それは有吉佐和子や山崎豊子や花登筐の小説がそうである、という意味でwell-madeだと思います。もちろん私はこの人たちの小説を愛しているので、皮肉ではありません。純文学が、作者とどこか根っこで繋がっており、それゆえに切実さを感じさせるものだとしたら、有吉らの小説は作品と作者の間の繋がりを潔く断ち切り、人間観察の鋭さ深さと、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力とによって、その作り事を読者に信じ込ませる。

今回、同じような才能を前田さんが持っていることがよくわかりました。以前私が『濡れた太陽』を褒めたのは、それが純文学的切実さを持っていたからですが、それ以前の彼の小説は全て寓話であり、寓話でしかない分、自分のでっち上げた作り事についての細部に至る想像力があれば成立するものでした。今回は(恐らくは本来の持ち味でなかった)切実さを捨てて、もう一度想像力だけで全てを作りあげようとして、しかしそれまでのように寓話の嘘くささに逃げず、「リアリティ」を人間観察の鋭さにおって獲得しようという新たな試みだったのだと思います。

そしてそれはかなり成功していると思います。繰り返しになりますが、最初の1/3は描写のうまさやちょっとした表現の気の利いたところによって、迫真さのある物語になっています。
夫の視点に切り替わるとやや精彩がなくなるのは、女性視点で書く方が得意だ、ってことがあるかもしれませんが(そこは太宰っぽいですね)、多分やる気がなくなったんだと思います。
そこから先は前述の通り、実に惜しい。前田さんは短編小説の方が向いている、とも言えるし、途中で手を抜く悪い癖を直さない限り、長編小説はおろか、今回のような中編小説も書けないという気がします(『濡れた太陽』は最後まで気合が入ってました)。
自分の才能に甘えて無駄遣いしているなあ、という感想は変わりません。あるいは、小説は所詮自分のフィールドではない、という思いがあるからでしょうか。

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