状況劇場・創世と揺籃――紅テント劇場への道―

「『現代日本戯曲大系』月報6」(一九七一年一一月)

唐十郎

遍歴

昭和三十九年四月 於・新宿日立ホール

「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている

作・唐十郎 演出・骸馬二

終演間近、骸馬二行方不明となる。

昭和三十九年六月 於・厚生年金三階結婚式場

「渦巻きは壁の中をゆく」

作・唐十郎 演出・禿千里

昭和四十年二月 於・俳優座劇場

「錬夢術」

作・唐十郎 演出・禿千里

二月三日、初めての街頭劇、銀座数奇屋橋のプールに一時間浸っていた大久保鷹、凍死寸前、一警官に救出される。代表者、一晩拘留。

昭和四十年六月 於・日立ホール

「腰巻お仙・一部」

作・唐十郎 演出・禿千里

八月、禿千里、某婆と無理心中に及び、急死。

昭和四十年十二月 於・日仏会館ホール

遺恨公演「ジョン・シルバー」

作・唐十郎 演出・堂本正樹

稽古なかば、十一月二十日より十二月二日迄、堂本正樹氏遁走する。が、公演当日、かのスマイルをもって又も姿を見せる。

昭和四十一年五月 於・戸山ハイツ

路頭劇「腰巻お仙・一部」再演

昭和四十一年七月 於・日立ホール

「アリババ」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、狼藉のチンピラ達と乱闘、観客六十人入り乱れて延々二時間つづく。渋沢

龍彦兄ィ、仲裁にて治まる。

昭和四十一年十月 於・戸山ハイツ灰神楽劇場

路頭劇「腰巻お仙・二部忘却篇」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、四台のパトカーに監視さる。

昭和四十二年二月 於・新宿MJ喫茶・ビット・イン深夜館

新宿オペラNo.1「時夜無・銀髪風人」

作・唐十郎 演出・村尾国士

昭和四十二年五月 於・草月ホール

「時夜無・銀髪風人——新宿恋しや夜鳴き篇

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、麿赤児の浴びた風呂の水のため、劇場水びたしになる。

昭和四十二年八月於・新宿花園神社

「腰巻お仙――義理人情いろはにほへと篇」

作・演出・唐十郎

八月半ばの公演中、開演十分前より大雨台風に襲われ、観客ともどもテントを高台に移す。

 雨あがりの舗道の水たまりを小指で輪をかいて遊んでいる子供がレース越しのカーテンの向うに見える。子供は水たまりを鏡にして何回も何回も、執拗にくり返して今にも泣きださんばかりなのだが、それはまるで水たまりの自分の顔が歪んでしまうため、分の顔じゃないととまどい思っている風。何時間か時がすぎ子供が再びその水たまりのあった場所に戻った時、すでに水たまりは気ままなお天道様によって蒸発し跡形もない。子供はさっきまでの遊戯の場を踏みこえて行ってしまった。

 犯罪者が、おっかなびっくりそして微かにワクワクしながら犯行現場へと行為の確認に辿り着く如く、かつて芝居を上演した場所――戸山ヶ原のススキヶ原とか崩れ落ちた元駐留軍ブール、新宿花園神社の銀杏の木の下、湯島の白梅天神の太鼓橋の下にゆくと、私の足に口惜しみの河が流れ、苦々しい愛着が訪れるものです。

 私の肉体のそこここに口惜しみの河は流れ、遊戯する子供心にも似ておおらかである。

 昭和三十九年春から秋にかけて、私は上野万年町の物竿し台の見える、蜘蛛の巣張りの部屋のミカン箱の上で「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」「渦巻きは壁の中をゆく」を書いた。その頃私の愛用していたバッグは牛乳配達用の手さげ袋であって、その中にはいつもカレンダーをつなぎあわせた白紙に細い字でびっちりつまった戯曲原稿が入っており、こねくりあげた戯曲の秘法が自転車にゆられてカラカラと舞った。

 東北の米作り婆さんはその日の激しい労働を振りはらう如く夕日をながめて土手に股をこすりつけるというのだが、その頃、メンバーの役者どもは昼間土方仕事をやり、夜は夜でやけっぱちの振りはらい錬金術師であった。

 京の鴨の河原に棲息した河原乞食芸人は、そもそもはエタ・非人の類いであって昼なお暗い橋の下で清い水に流れる鮮血、皮なめしのぶったたく手のしびれ、腰のこりなどを振りはらう如く、白粉口紅ほどこし暗闇に佇むと、道ゆく_¨町の人々¨_はその余りの美しさに目をこらしたということです。

 このような現実原則の日常と痙攣する美しさは役者の肉体の中ではいつも隣り合わせで、役者の顔を並べて見るに泣優、骸優、禿優、渋優、恨優、痴優、心中優、遁優、憤優といった風にどこか病みつきの肉体を持っているものです。

 やけっぱちの錬金術師の寄り集まる稽古場は大学の演劇生から借りた地下室であって、稽古休みの時間に便所に入っていると天井から水入りのバケッとかホウキとが飛びこんだり、その頃_^流行【ハヤ】^_りのリンボーダンスをやったりで、気狂いじみたおおらかな遊戯と真っ昼間の土方仕事への振りはらいは、いつもすれすれのところにあった。

 やけっぱち錬金術師には、自分が驚ろかされる前に他人を驚ろかしてやろうという茶目っ気とその反応への執拗なにじり寄りがあって、台詞を覚えるのに山手線外廻りを七周したり、トイレにはいったきり何時間も出てこなかったり、歯科医院の前に女装してミドリのオバさんとして立ってみたりで、うごめき、澱む町のまっただ中に自らの恥をさらけだし、なお一層病みつき痛んでいた。

 新宿には、その頃、ところどころに申し訳なさそうに空地もあったりしたが、伊勢丹を少し四谷寄りに行ったところに日立レディスクラブホールというショールーム程の小さな劇場があって、五十人も入れば超満員。

 やけっぱち狂躁の錬金術師の日常と客を前にした時の半熟卵状の役者体は暗闇の袖の中に足を残し、舞台に出た顔は笑顔満面。

 時たま、イキの悪いフーテン風客のかけ声に舞台からまっしぐらにかけおり首根っこをとっつかまえてたちまちにしてレディスクラブホールは乱闘の場。乱闘のまっ只中で不動のヨガ行者の如き役者がいたが、彼はその後黙優として登場し、後にアンマとなった。

劇団のメンバーは無名であり、客はいかなる場に於いても常に無名である時、劇表現のもつ荒々しさは、より多くの葬り去られていった無名の者への愛と近親憎悪を相ともなってくる。

 厚生年金で「渦巻きは壁の中をゆく」を演ったのはカーテンシャッター一つ隔てた結婚式場の隣りであった。

白い壁の向うにほこりっぽい道がつづき、

ダリヤの花が咲いて

夏がまわる。

大きなむく犬が吠えると

イチジクの木から子供が散って夜が始まる

そんな遠い町がぽっかり沈んで、ここは、あれ以来雨です雨なんです。

そんな遠い町が昔、ここにあったことは確かなのですが、

今は馬の胃袋のような空から

雨がびじょびじょ

びじょびじょ降ってくる

(「渦巻きは壁の中をゆく」一場ラストより一部)

三十人程の客を前にローソクの炎に照らされた老人が現われた時、すでに隣りの宴会はたけなわ、ビールビンのカチャンカチャンぶつかりあう音、「おめでとう、おめでとう」といい合う嬌声の中を、堕胎児への鎮魂と一組の無名の男女の愛のきしみは進行し、又もや口惜しみの錬金術師どもの振りはらいは、何か目に見えぬものにけしかけられた如き形相を呈する。

 こんな風にして設備の不完全なホールで芝居を演ることがいっも町の中へ町の中へと私をかりたてていたに違いない。

 町の中へ町の中へ、無名の者を優しく染める愛の錬金術師は、相も変わらず無名であった。

 独白

はじめてペンをとったボクの不可能な願いは、偉大なる気狂い女に理解されるような芝居を書きたいということでシタ。

アノ女の偉大さは、その脳漿が夜のみでなく昼間中夢みつづけるというところにアリマス、が、その夢は、悲惨な記憶かも知れない。

無意味なリフレインかもしれマセン。

タダ、アノ女の偉大さはそれにもかかわらず、昼日中、ビルの窓を逆さ斜めに突き抜け、地下鉄のレールに頬をつけて、頭骸骨を砕かれることなく眠りつづけられるということなのデショウ。

夢を追いかけ、夢に追いかけられるアノ女は、夢の破片を自動記述するボクなどより、ずっとヴァイタリティがアルンダ。ボクやアナタタチの想像的感覚のπr2程もアノ女はいつももっているノデス。アノ女は想像のタコなんです。どこかジャンヌ・マリに似たーー

(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」パンフレットより)

 ロング・ロング・アゴー

不思議な小屋が浅草にある。

僕がその前に立っていたのは、去年の暮れのどん曇りの夕方だった。

映画街から離れ、屋台店の密集したなかに一見、江戸時代の芝居小屋のような構えで、そいつは居た。

入口に三十円の字が見えたので、こりゃ安いとは思ったが、ストリップではなし、エロ映画でもなし、(只、看板の浮世絵の女の腰巻がひっかかる)、思い切って、僕はまっかなのれんをくぐった。そして――鐵人形達が僕の前にズラリと並んだ。片手のない者、性器の腐った者――頭のない物――みんな片輪者である。

客は僕の外に誰もいない。

この群れを通り抜けなければ出口は現われない。

僕は一人の女のざくろのように割れて、熱んだ乳房に、何年もたまりつづけた埃りを拭いていると、その向うの暗がりで誰かが笑った。

木男がそこに居るらしい。あの黒い静かな笑い……。

ここにはお前の死んだ弟もいる。

ここにはお前に凌辱された老母もいる。

ここにはお前の探している’60年の死者もいる。

天井のシートが風にハタハタと鳴った。

――そうか。お前は、こんな衛生博覧会の倉庫のような日本的暗闇で僕を待っていたのか……

僕は乳房の埃りをなおも拭いながら云う。きっと、チョウチン持ちのスメルジャコフも伴れて来ているんだろう。いや、奴は今テンカンで寝ている。さて、お前にはどこを病ませようか。言語中枢不能はどうかな?

結構だね。僕は乳房の埃りを拭いつづけながら云う。舌と耳とはやろう。その代り、僕に目をくれ。ランボーがアフリカで捨てたあの千里眼をー―。

そりゃどうかな?木男の幾条もの手はそろそろ僕を捕えた。

そして今。僕はここで、人形の群れに混り、毎夕、小屋の呼込みをやっている。この芝居の批評もこちらへ送って下さい。(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」プログラムより)

戸山ヶ原での「腰巻お仙・忘却篇」の上演にたどりつくまで、新宿日立レディスクラブホール、日仏会館、俳優座ホール、はたまた厚生年金の結婚式場の隣りといった風に芝居上演場所を転々としたのですが、いよいよ町の中に明されるべく出かけてゆく時、その町には必ず自警団なる自己閉鎖集団が待ちうけ、私たちの芝居は町から町へとさすらう運命になった。

 当時の「腰巻お仙・忘却篇」の観劇評を堂本正樹は低俗不浄による劇の発見と評しておりますが、芝居進行中、やけっぱち錬金術師共の役者の肉体は寒風に刺され、客はといえばてんでに客どうし酒をくみかわし、芝居終演と同時に役者一同うちそろいて地ベたに土下座の挨拶、またしても役者、観客入りみだれてのまわし飲み、ススキヶ原の月は冴えわたっていた。

 私たちの芝居の行なわれる場は、ゆるやかな日常茶飯事、人々の染まる猥雑なる雑踏の地に、“これより悲しみの地に入る”なる呪語をもって聖地創造におもむく感であった。

 さて、この頃私は西荻の女子大のアパートから阿佐谷天沼の一軒家に移っておりました。

 李礼仙と共に全国を金粉ショーダンサーをして稼いだ金で借りうけたこの一軒家は、ささやかな庭と縁側のある家で、垣根にはさんしょの木とか柿の木とかが植わっており、昼ともなるとどこからともなく集ってくる役者で狭い家の中はごったがえし、近くの子供の遊び場を兼ねた公園で体操やら発声訓練とかやったものです。

 数人の役者が夜の巷をほっつき歩き、日が昇ると稽古場の縁側にたどりつき病んでいる肉体を表現へとおもむかせた。

 新宿西口の飲み屋横丁の焼きとり屋で一杯飲んでいる時、突如入団を申しこんだ全学連上がりの役者は、今や優しきミドリのオバさんに熱中し、稽古二時間前に縁側にたどりつきミドリの上衣、黄色い旗、ズック靴の手入れを入念にやり、薄ピンクのマニキュアを爪にほどこし、オバケツケマツ毛をつけ、彼の表情は、あんなにも優しいミドリのオバさんは女に出来得るはずがないとでもいいたげに偏見で一杯なのである。

 その頃うす汚れた手さげかばんの中にいつも青い表紙の小さなノートに詩をかきっけているヒゲの役者がおりましたが、いつの日か、全学連上がりのミドリのオバサンと手に手をとって雑踏の中で信号待ちをしている姿を見たことがあります。

 未だ上野万年町に高速道路が出来る前のごみごみした町中を二人の男女の老人が、走りゆく車と信号機の前でおろおろしている情景を見たことがありますが、今になってこうした若い二人がおろおろしあうとは彼らにとって一体何事であったのだろう。

 夜ともなればかのヒゲ詩人は、はにかみに満ちて自分の詩を朗読し、ミドリのオバサンは詩吟を口ずさみ、又あるものは泥酔の果て台所の包丁でふすまを切り、又あるものは駅前のオデン屋台に走った。

 各々の役者が、どこからやってきて、どこにいて、何をやろうとしているのかに思いをめぐらす時、他人とかかわる時、江戸の介錯人の如き優しき世話人であろうとするものです。

 技術としてのミドリのオバサンが失敗した時など、化粧、衣裳をほどこした町を走らせ、動物愛護病院前で台詞をいわせたりヒゲ詩人には一ヶ月間便所掃除のみ言いつけたりで、痛みをともなった恥と共に役者同志は成長するようであった。

 それから二回の夏が通りすぎ、キャバレーのショー巡りから帰ってくると、私達は、貧乏生活にたたられてか、絶対に損をしない興行——総予算五千円を元手に、文化長身のド真ん中、戸山ハイツのススキヶ原に向った。

 公園課の課長が幸いに、日曜画家であったため、善意で、その場を貸してくれたのは良かったが、文化長屋の教育委員の差し金で、派出所の警官とかパトカーが四台現われ、近所の児童教育防衛隊までが、石を投げる。その少年の姿が、いつか見た映画のパルチザン少年隊とダブって、私たちには、悲しかった。だが、文化長屋も、夜になると何故か弱かった。時こそ晩秋のススキ原。寒さとテレビ恋しさに、住民は寝床に帰ってゆき、ヘッドライトを消したパトカー四台だけが向うの丘の上で息をひそめている。

 横尾忠則のポスター「腰巻お仙・忘却篇」の夜目にも鮮やかなピンクの桃を頼りに、三十人程の客人が一升ビン片手に、辻から辻と、その風の棲家にたどりつき、それを見定めて、照明隊はペダルをこぐ。照明隊とは、二台の自転車で、そのペダルを思いきりこぐとほのかな電気が、役者の顔をてらす。ヒャラリヒャラリコという効果音楽にしても、電池の小さなテープレコーダーであるために、その音のかぼそさといったら――。横の公衆便所の水の落ちる音にすべてをさらわれるってな具合。だが、丘の向うから_¨ゴザ¨_を小脇にやってくる李礼仙の夜鷹に、「ヤイヤイ! てめェーら!」とどやしつけられる時、三十人の客人は、そこで、初めて、その夜路のルージュの中に、腰巻お仙の初期症状をうすら寒き風と共に見つけたにちがいない。

 卒塔婆の林立する悲しみの地よりムックリ起き上ったゴザを抱えた紅いルージュ、それが腰巻お仙であることは決定論というもの。それ迄の私の作品には影ばかりただようて、なかなか現われなかったその人。

 もう、町の中にとびだしてゆく用意はできた。

 新宿花園神社に目をつけて、何が何でもそこに紅いテントを建てようと狙ってみたのはいいものの、コネがなかなかつかめず(私は、この時程、コネという言葉の怨めしき力を感じたことはなかった)、突然、訪問することにした。すると、社務所には、白髪の老婆と、宮司のお年寄りがお茶を飲んでいて、セールスマンか何かと私を思い込み、上等なお茶を出してくれた。伝説に依れば、二百年前のこの神社では、芝居小屋がかかってそれはそれは大変な江戸文化の衛生ポイントであったらしいですな、とか何とかいってるうちに、すぐにでもそこに建てられそうな話がまとまって、この約束大丈夫かなと思いながら、そのことを仲間に伝えた。

 都市の裏から這いよるべき紅いのテントはそこで注文するや、私は、毎朝、駅前喫茶店の「アランフェス」という店で、毎日一時間(これは八時より九時半。これ以上、そこに居ると、セールスマンの打ち合わせがそこでくりひろげられるために、創作不可能)、その一時間のうちに、埋めるべき原稿用紙のノルマは、四百字詰めで三十枚であった。書きとばす時間が速くて、喫茶店を出てからも、ペンが手のひらの上をすべってゆくこともあった。そして十時半から、劇団のメンバーが集まり、近所に気をつかっての猛稽古。

 二日後、花園神社の社務所から、電話が、三百米離れた雑貨屋に入った。かけつけてハイハイというや、案の定、総代会が、疑っているから、あの約束は駄目にするという。あっ、こういうことを懸念していたのだ。駄目ですか、じゃ又会う日迄と電話を切るわけにもゆかず、一寸待って下さいな、御老体。すぐ、そちらへ行って、我らの演劇がいかに、御老体をも魅きつけずにはおかないかということをお見せしますから、結論を急がないで下さいと私はいった。そこで、今、すぐ総代会に見せるわけにはゆかんから、一週間後に、神社のビルの二階にあるホールで披露されたしということになり、まだ出来上っていない「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇」を、腰巻では元も子もなくすだろうといぶかって、月笛お仙という名に一応なおして、ネクタイしめて(メンバーの中には、この時、生れて初めてネクタイをつけた者が大部分であったらしい)、神社ホールにかけつけた。だが、ホールに入って、ドーラン塗りたくったはいいものの、来ているべき総代会の老体は、一人も居らず、私が、初めてここの社務所に話を持っていった時のあの宮司とお婆さんにその子供たちが、まるでバザーの余興でも観るつもりで、待っていた。「総代会の人たちは?」と私が宮司に聞くと、「おそいね」としか彼はいわぬし、コンニャク談義ではラチが明かぬ。いくら、ここで、「腰巻お仙」を、この場限りに上品に捏造してみたところで、くたびれもうけではないか。

 こんな私の心配をよそに、待ちくたびれた役者群は、喜々として「腰巻お仙」上品版を演じはじめた。だが、いつもは、このホール、お花の会とか、着物の展示会につかわれる素寒貧な空間。もともと、テントの中で演じられるべき「腰巻お仙」には、いかにも窮屈で、いくら荒事をやってのけても、只、無暗やたらに暴れているだけ。観劇の婦女子や老人は、顔を見合わせ、白け返って、お茶でも飲みましょうか、お爺さんというのであった。結局、誰も居なくなり、私は、まだ暴れている役者群に「もう、いいよ」といった。

 果してどうなることか。ドーランのまだ落し忘れている顔が、再びネクタイを締め、何卒よろしく、と社務所に伺いを立ててから、電車に乗って帰ったのは、まだ真昼間。一体、出来るのだろうか出来ないのではといった不安が、何日もつづいて、出来ないことはない。許可されなくとも、紅いテントをおっ立ててしまおうと思いつめて一週間。もう夏に入り込んでいた。社務所に電話をかけて「総代会は何といってました?」と聞きただすと、宮司は「何のこってす?」というのである。

 これ程、雲をつかむような詮索は無意味と、もう電話をすることもなく、真夏の新宿公演に向った。風が吹き荒れ、埃りが舞って、紅いの肌がひるがえると、私は、そこに演劇を始めてから、やっと一つ手に入れることの出来た様式の何たるかを知った。私は今迄何者でもなかった。これからは、この紅い化け物を盾に、否、この紅い生き物に肉化した無名の私として町を征こう。

(状況劇場主宰)

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