坪内逍遙の「アマチュアリズム」:「手仕事」としての学問

津野海太郎『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(平凡社、二〇〇二年) は早稲田出身者によって祭り上げられてきた感のある坪内逍遙の偶像破壊に一役買った。これと、以下の戸板康二『対談日本新劇史』に収録されている秋田雨雀の評言、そして亀井秀雄「森鴎外の作品と人間像」の以下の説明を併せて読むと、学者としての逍遙の「アマチュアリズム」が浮き彫りになる。

鴎外のように先学の徒の業績の上に自分の思考を積み上げることを逍遙はよしとせず、自分の生活に根づいた知を得るために、自分で一からものを考えようとする。それゆえにその思考には穴も多く、その仕事には「失敗」(津野)も多い。ポローニアス同様、当然知っているべき文脈を理解できずに「間抜け」に見えることもあったろう。

とはいえ、学者としては「優等生」で終わる危険があった鴎外は結局自分でものを考え(られ)る場として小説を選びとるのに対し、逍遙は「手仕事」としての学問の有効性を信じていたがゆえに最後まで「学者」であり続けた。

秋田 古い制度の中にはいっていても、新しいものをやろうという考え方は[鴎外]にはあったので、「進歩性」は認めていいことですね。私は逍遙よりは鴎外が好きですね。逍遙の方はなんて言いましょうか、フェリステン的[注:Philistine(凡俗な人;俗物;(芸術などに無関心な)教養のない人)]と言ったら[逍遙の弟子の英文学者]本間久雄君が怒ったことがあった。片っ方は近代的な一種の親分で、片っ方は道学者、逍遙はその点で島村さんとぶつかったわけです。
戸板 先生は、いつか「逍遙っていう人は『ハムレット』のポローニアスみたいだ」とおっしゃっていましたが……
秋田 そうです。近代的な理解のある人だったら、あの喧嘩[鴎外との没理想論争]も起こらなかったでしょう。それは田山[花袋]さんも批評していますね。
戸板康二「秋田雨雀の巻」『対談日本新劇史』(一九六一年)一二頁

V.逍遥との論争

 しかし、彼の論争癖は止まることを知りませんでした。 彼は非常に対抗意識が強く、相手を、官僚組織や学界に隠然たる勢力を持つ、権力主義者に見立てて、これを非難する。そういう性癖が彼には見られます。彼の上司だった石黒忠悳(ちゅうとく)に対してもそういうところがあり、石黒忠悳としては迷惑を覚えたことも多かったでしょう。

 文学の領域においても、彼は、坪内逍遥の「シェークスピア脚本評註」(明治24年10月、『早稲田文学』創刊号)に対して、ほとんど言いがかりに近い批判、「早稲田文学の没理想」(明治24年12月、『志からみ草紙』)を書き、いわゆる没理想論争にまきこんでいったわけですが、ここでも同様な点が見られます。

 彼は逍遥を批判するに当たって、「逍遥の影響が拡がって、いまや文壇の一大勢力になりつつあり、それはそれで結構なことであるが、ただ、理論的におかしいところが見えるので、敢えて批判しておく」という意味のことわりを述べています。それはそれなりに一応筋の通った言い分に見えますが、当時の逍遥はそんなに大きな存在ではありません。現在の文学史では、『小説神髄』と『当世書生気質』は特筆大書されますが、これは後世からの整理によることであって、その頃はまだ滝沢馬琴の読本や、為永春水の人情本の系統、そして政治小説などのほうが、圧倒的に人気を誇っていました。文壇的に言えば、逍遥はまだまだ小さな存在でしかありませんでした。

 それに、鴎外が攻撃対象とした、逍遥の「シェークスピア脚本評註」は、このタイトルから分かるように、逍遥がシェークスピアに関する講義録を『早稲田文学』に連載するに当たって、評釈の方針を説明した、ごく短い文章にすぎません。「ここでは、自分の理想(文学上の理念)を掲げてシェークスピアを論評するのではなく、できるだけシェークスピアの世界が客観的に現れるようにしたい」と。ところが鴎外はその言葉尻を取り上げて、逍遥は「理想」を否定して、「没理想」を説いている、とあげつらったわけです。そしてドイツの哲学者・ハルトマンを烏有先生と呼び、その『美学』を逍遥の理論にあてはめて、逍遥の概念の曖昧さや小説論の浅さを指摘しました。

 これには逍遥も驚いたでしょう。自分は文学論などやるつもりはなく、講義録の読者に評釈の方針を語っただけなのに、いきなり後ろから殴りかかられたようなものです。びっくりした逍遥が、あなたのいう烏有先生とは誰のことか、と質問したところ、鴎外は「ハルトマンを読め」としか答えない。無茶苦茶な言い分ですが、それならば鴎外はどこまでハルトマンを理解していたのか。神田孝夫の「森鴎外とE・ハルトマン――『無意識哲学』を中心に―」(長谷川泉『比較文学研究 森鴎外』昭和53年、朝日出版社)によりますと、鴎外がドイツ留学中に読んだハルトマン関連書は、J・J・ボレリウスの『現代独仏哲学瞥見』であり、鴎外が所持していたハルトマンの『無意識哲学』は1890年(明治23年)版だった。だから、鴎外はまともにハルトマンを読んでいなかったのだ、とまでは断定できませんが、実情はボレリウスという人の解説に頼っていたすぎないように思われます。

亀井秀雄「森鴎外の作品と人間像」(二〇〇二年十二月七日、北海道日独協会)

…さらにいえば、自分の個性を研究に刻むのが本物の(人文科学分野における)「学者」であるという誤ったイメージが広まったのも、もしかすると逍遙のせいかもしれない。逍遙は「滑稽」だが「巨人」だった。しかし(天に向かって唾をするようなものだが)先学の徒が築き上げてきたものと正面対峙することを避け、そのときどきに「流行」している学説を不完全な理解のまま「紹介」し取るに足らない「自分の考え」を付けくわえることでお茶を濁すという幾多の「矮小な」文学研究者たちは滑稽ですらない。

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