五月大歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』新橋演舞場, 2011年5月23日

(twitterへの投稿を書き換え追加しました)23日。当代の八ツ橋は福助ではなく玉三郎であり、栄之丞も梅玉ではなく仁左衛門だ、とは衆目の一致するところだろう。そして佐野次郎左衛門といえば幸四郎や吉右衛門の名を挙げる人が多いいのではないか。だが私にとって佐野は勘三郎だ。愛想づかしされる以前から佐野の体内にふつふつと湧いていた狂気をもっともうまく表現できるのは勘三郎だ。佐野が体現する、多くを求めすぎた男の悲劇、自分のガラでもないことをやりたがる男の悲劇は勘三郎自身の人生と重なる。矩を踰えない、踰えたことのない吉右衛門には決して出せない悲哀と滑稽さが勘三郎の佐野にはある(幸四郎にもちょっとあるのは、幸四郎もまた多くを求めすぎた男だからだ)。

だから今回の座組にはさほど興味が沸かなかったのだが、通しには何かしら意味があるだろうと思って見に行った。だがあに図らんや、歌舞伎座閉場以降多くなってきた通し上演の意義に疑問を感じて帰ることになった。

通しを盛んに行うのは松竹なりの計算なんだろう。どうせ新歌舞伎座落成までしばらく客がこないのなら、金がかかるミドリはやめる。通しをして俳優を鍛える。一石二鳥だと思っているだろうが、昔通し上演の重要性が盛んに唱えられたときに言われた「人物の一貫性」は結局見えてこない。そもそも前近代性を背負う歌舞伎の登場人物に一貫した性格を求めても無駄だ。通し上演の必要性を唱えていた評論家たちはスタニスラフスキーの「超目標」を意識していたはずだが、ヨーロッパですら人格の統一性は近代のフィクションだという認識がある現在、歌舞伎にそれを求めるのはないものねだりだ。

イプセンやチェホフの戯曲においてきわめて効果的な、登場人物の「一貫した性格」を示し、スタニスラフスキー言うところの「超目標」(それは大抵その一貫性が破綻する、という「悲劇」になる)に向かって突き進む、という演技を、現在の日本の俳優、とりわけ歌舞伎俳優は身につけていない。それは評論家たちが指摘するように、ミドリばかりやってきた弊害からかもしれない。だが今、通しをしても説得力がないことに変わりないし、今後続けていってもできるようになるとも思えない。

たしかに、たとえばなぜ佐野が、百姓であっても手練れの剣術使いのように百人も斬れたのか、という疑問も今回の通しで氷解する。物語の辻褄を示すという意味では通しにも意義があるだろう。だがそれはパンフレットに一言示しておけばすむことでもある。

その一方で、見ていてもっとも「劇的」であろう、佐野が心の深いところで徐々に狂っていく過程を今回の吉右衛門は示せていない。それはたんに自らのあばた面へのコンプレックスだけではない。つましく暮らし行商して小金を貯める生活から、吉原で大尽といわれ散財する派手な生活に一変したことへの恐怖、愛想笑いをしながら、つねに自分が相手に騙されているのではないかと疑っていなければならない色街での振る舞いへの違和感、要するに、「自分のガラではないなあ」と思いながら意地や見栄から突き進まざるを得ない男がだんだん世界との距離感を掴めなくなり、不安に思いながらもなおも「正常」であろうとするときにふつふつと沸いてくる狂気が見えてこないのだ。吉右衛門の佐野はミドリのときと同様、ただ八ツ橋に愛想づかしされて豹変するだけだ。

おそらく、たとえ勘三郎が「籠釣瓶」通しでやっても、超目標に向かって計算尽くの演技をするのではなく、ただニンどおりに「直感的に」演じるだけだろう。そうであってもニンがあるから徐々に狂っていくように見える。とはいえ、ミドリでやってもそれまでに蓄積された狂気は観客に見えるから、同じことだ。であれば通しでやることに何の意義があるのだろうか。「物語の必然性」の名の下に退屈な場面が増えるだけなら、観客は離れていくだけではないか。

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