演劇とは間接民主主義の共同体の共通感覚である

二つ前の投稿で紹介した藤井康生さんの、「演劇とは間接民主主義の共同体の共通感覚をもとにしているが、現在では間接民主主義が機能不全に陥っており、演劇研究は共同体の感覚が喪われた時代にあって、文献学的な研究になっていく」という認識は大変鋭い。

「一つ手間を掛ける」「一つクッションをおく」という生活の知恵が忘却され、即席かつ直接に結果を求める世の中になっている、と言えばなんだか内田樹めくが、間接民主主義も演劇もそういうもので、だから昨今人気がないのだ、と言われると腑に落ちることがたくさんある。

もちろん、藤井さんは昨今の研究動向への批判をちくりとしているわけで、そのことを忘れてはならないが、現代日本演劇を考えるときでも、60年代の演劇が持っていた熱気がなぜここまで急速に冷却したのか、という問いにたいして、80年代というのがじつは間接民主主義にたいして最後の夢を抱いた時代であり、80年代小劇場演劇がほとんどスカであった、という印象を現在私たちが抱くのは、間接民主主義にたいする幻想がそのとき徹底的に打ち崩されたからだ、というように答えられるのではないかな。

演劇というのは、表象=代理システムでありながら無媒介の「存在」が舞台に出現することを期待するという点で、最初から直接民主主義の夢を見せながら間接民主主義をやってきたわけだ。90年代の静かな演劇が持つシニシズムというのは、80年代小劇場演劇の空疎な熱狂にたいする批評的ポジショニングであるとともに、自分たちは間接民主主義を幻想とわかりながら支持していくしかない、という決意表明でもあった。

その代表的旗手であった平田オリザが、民主党鳩山政権のブレーンになってTwitterの使用を進める、というのはいわば必然であって、というのも民主党政権こそ「インチキ芝居」をやっていますよ、ということを自分たちも国民もわかりながらそれしか選択肢がないので支持する(自民党政権というのは直接民主主義の夢を見せながら間接民主主義をやるという旧態依然のことしかできないわけだから)ことで成り立っているからだ。Twitter的な直接民主主義の回路が開かれていることは示しつつ、しかしその実間接民主主義をやらざるを得ない、というのは平田オリザの演劇外活動とその演劇作品と見事に対応している。


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