状況劇場・創世と揺籃――紅テント劇場への道―

「『現代日本戯曲大系』月報6」(一九七一年一一月)

唐十郎

遍歴

昭和三十九年四月 於・新宿日立ホール

「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている

作・唐十郎 演出・骸馬二

終演間近、骸馬二行方不明となる。

昭和三十九年六月 於・厚生年金三階結婚式場

「渦巻きは壁の中をゆく」

作・唐十郎 演出・禿千里

昭和四十年二月 於・俳優座劇場

「錬夢術」

作・唐十郎 演出・禿千里

二月三日、初めての街頭劇、銀座数奇屋橋のプールに一時間浸っていた大久保鷹、凍死寸前、一警官に救出される。代表者、一晩拘留。

昭和四十年六月 於・日立ホール

「腰巻お仙・一部」

作・唐十郎 演出・禿千里

八月、禿千里、某婆と無理心中に及び、急死。

昭和四十年十二月 於・日仏会館ホール

遺恨公演「ジョン・シルバー」

作・唐十郎 演出・堂本正樹

稽古なかば、十一月二十日より十二月二日迄、堂本正樹氏遁走する。が、公演当日、かのスマイルをもって又も姿を見せる。

昭和四十一年五月 於・戸山ハイツ

路頭劇「腰巻お仙・一部」再演

昭和四十一年七月 於・日立ホール

「アリババ」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、狼藉のチンピラ達と乱闘、観客六十人入り乱れて延々二時間つづく。渋沢

龍彦兄ィ、仲裁にて治まる。

昭和四十一年十月 於・戸山ハイツ灰神楽劇場

路頭劇「腰巻お仙・二部忘却篇」

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、四台のパトカーに監視さる。

昭和四十二年二月 於・新宿MJ喫茶・ビット・イン深夜館

新宿オペラNo.1「時夜無・銀髪風人」

作・唐十郎 演出・村尾国士

昭和四十二年五月 於・草月ホール

「時夜無・銀髪風人——新宿恋しや夜鳴き篇

作・唐十郎 演出・涙十兵衛

上演中、麿赤児の浴びた風呂の水のため、劇場水びたしになる。

昭和四十二年八月於・新宿花園神社

「腰巻お仙――義理人情いろはにほへと篇」

作・演出・唐十郎

八月半ばの公演中、開演十分前より大雨台風に襲われ、観客ともどもテントを高台に移す。

 雨あがりの舗道の水たまりを小指で輪をかいて遊んでいる子供がレース越しのカーテンの向うに見える。子供は水たまりを鏡にして何回も何回も、執拗にくり返して今にも泣きださんばかりなのだが、それはまるで水たまりの自分の顔が歪んでしまうため、分の顔じゃないととまどい思っている風。何時間か時がすぎ子供が再びその水たまりのあった場所に戻った時、すでに水たまりは気ままなお天道様によって蒸発し跡形もない。子供はさっきまでの遊戯の場を踏みこえて行ってしまった。

 犯罪者が、おっかなびっくりそして微かにワクワクしながら犯行現場へと行為の確認に辿り着く如く、かつて芝居を上演した場所――戸山ヶ原のススキヶ原とか崩れ落ちた元駐留軍ブール、新宿花園神社の銀杏の木の下、湯島の白梅天神の太鼓橋の下にゆくと、私の足に口惜しみの河が流れ、苦々しい愛着が訪れるものです。

 私の肉体のそこここに口惜しみの河は流れ、遊戯する子供心にも似ておおらかである。

 昭和三十九年春から秋にかけて、私は上野万年町の物竿し台の見える、蜘蛛の巣張りの部屋のミカン箱の上で「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」「渦巻きは壁の中をゆく」を書いた。その頃私の愛用していたバッグは牛乳配達用の手さげ袋であって、その中にはいつもカレンダーをつなぎあわせた白紙に細い字でびっちりつまった戯曲原稿が入っており、こねくりあげた戯曲の秘法が自転車にゆられてカラカラと舞った。

 東北の米作り婆さんはその日の激しい労働を振りはらう如く夕日をながめて土手に股をこすりつけるというのだが、その頃、メンバーの役者どもは昼間土方仕事をやり、夜は夜でやけっぱちの振りはらい錬金術師であった。

 京の鴨の河原に棲息した河原乞食芸人は、そもそもはエタ・非人の類いであって昼なお暗い橋の下で清い水に流れる鮮血、皮なめしのぶったたく手のしびれ、腰のこりなどを振りはらう如く、白粉口紅ほどこし暗闇に佇むと、道ゆく_¨町の人々¨_はその余りの美しさに目をこらしたということです。

 このような現実原則の日常と痙攣する美しさは役者の肉体の中ではいつも隣り合わせで、役者の顔を並べて見るに泣優、骸優、禿優、渋優、恨優、痴優、心中優、遁優、憤優といった風にどこか病みつきの肉体を持っているものです。

 やけっぱちの錬金術師の寄り集まる稽古場は大学の演劇生から借りた地下室であって、稽古休みの時間に便所に入っていると天井から水入りのバケッとかホウキとが飛びこんだり、その頃_^流行【ハヤ】^_りのリンボーダンスをやったりで、気狂いじみたおおらかな遊戯と真っ昼間の土方仕事への振りはらいは、いつもすれすれのところにあった。

 やけっぱち錬金術師には、自分が驚ろかされる前に他人を驚ろかしてやろうという茶目っ気とその反応への執拗なにじり寄りがあって、台詞を覚えるのに山手線外廻りを七周したり、トイレにはいったきり何時間も出てこなかったり、歯科医院の前に女装してミドリのオバさんとして立ってみたりで、うごめき、澱む町のまっただ中に自らの恥をさらけだし、なお一層病みつき痛んでいた。

 新宿には、その頃、ところどころに申し訳なさそうに空地もあったりしたが、伊勢丹を少し四谷寄りに行ったところに日立レディスクラブホールというショールーム程の小さな劇場があって、五十人も入れば超満員。

 やけっぱち狂躁の錬金術師の日常と客を前にした時の半熟卵状の役者体は暗闇の袖の中に足を残し、舞台に出た顔は笑顔満面。

 時たま、イキの悪いフーテン風客のかけ声に舞台からまっしぐらにかけおり首根っこをとっつかまえてたちまちにしてレディスクラブホールは乱闘の場。乱闘のまっ只中で不動のヨガ行者の如き役者がいたが、彼はその後黙優として登場し、後にアンマとなった。

劇団のメンバーは無名であり、客はいかなる場に於いても常に無名である時、劇表現のもつ荒々しさは、より多くの葬り去られていった無名の者への愛と近親憎悪を相ともなってくる。

 厚生年金で「渦巻きは壁の中をゆく」を演ったのはカーテンシャッター一つ隔てた結婚式場の隣りであった。

白い壁の向うにほこりっぽい道がつづき、

ダリヤの花が咲いて

夏がまわる。

大きなむく犬が吠えると

イチジクの木から子供が散って夜が始まる

そんな遠い町がぽっかり沈んで、ここは、あれ以来雨です雨なんです。

そんな遠い町が昔、ここにあったことは確かなのですが、

今は馬の胃袋のような空から

雨がびじょびじょ

びじょびじょ降ってくる

(「渦巻きは壁の中をゆく」一場ラストより一部)

三十人程の客を前にローソクの炎に照らされた老人が現われた時、すでに隣りの宴会はたけなわ、ビールビンのカチャンカチャンぶつかりあう音、「おめでとう、おめでとう」といい合う嬌声の中を、堕胎児への鎮魂と一組の無名の男女の愛のきしみは進行し、又もや口惜しみの錬金術師どもの振りはらいは、何か目に見えぬものにけしかけられた如き形相を呈する。

 こんな風にして設備の不完全なホールで芝居を演ることがいっも町の中へ町の中へと私をかりたてていたに違いない。

 町の中へ町の中へ、無名の者を優しく染める愛の錬金術師は、相も変わらず無名であった。

 独白

はじめてペンをとったボクの不可能な願いは、偉大なる気狂い女に理解されるような芝居を書きたいということでシタ。

アノ女の偉大さは、その脳漿が夜のみでなく昼間中夢みつづけるというところにアリマス、が、その夢は、悲惨な記憶かも知れない。

無意味なリフレインかもしれマセン。

タダ、アノ女の偉大さはそれにもかかわらず、昼日中、ビルの窓を逆さ斜めに突き抜け、地下鉄のレールに頬をつけて、頭骸骨を砕かれることなく眠りつづけられるということなのデショウ。

夢を追いかけ、夢に追いかけられるアノ女は、夢の破片を自動記述するボクなどより、ずっとヴァイタリティがアルンダ。ボクやアナタタチの想像的感覚のπr2程もアノ女はいつももっているノデス。アノ女は想像のタコなんです。どこかジャンヌ・マリに似たーー

(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」パンフレットより)

 ロング・ロング・アゴー

不思議な小屋が浅草にある。

僕がその前に立っていたのは、去年の暮れのどん曇りの夕方だった。

映画街から離れ、屋台店の密集したなかに一見、江戸時代の芝居小屋のような構えで、そいつは居た。

入口に三十円の字が見えたので、こりゃ安いとは思ったが、ストリップではなし、エロ映画でもなし、(只、看板の浮世絵の女の腰巻がひっかかる)、思い切って、僕はまっかなのれんをくぐった。そして――鐵人形達が僕の前にズラリと並んだ。片手のない者、性器の腐った者――頭のない物――みんな片輪者である。

客は僕の外に誰もいない。

この群れを通り抜けなければ出口は現われない。

僕は一人の女のざくろのように割れて、熱んだ乳房に、何年もたまりつづけた埃りを拭いていると、その向うの暗がりで誰かが笑った。

木男がそこに居るらしい。あの黒い静かな笑い……。

ここにはお前の死んだ弟もいる。

ここにはお前に凌辱された老母もいる。

ここにはお前の探している’60年の死者もいる。

天井のシートが風にハタハタと鳴った。

――そうか。お前は、こんな衛生博覧会の倉庫のような日本的暗闇で僕を待っていたのか……

僕は乳房の埃りをなおも拭いながら云う。きっと、チョウチン持ちのスメルジャコフも伴れて来ているんだろう。いや、奴は今テンカンで寝ている。さて、お前にはどこを病ませようか。言語中枢不能はどうかな?

結構だね。僕は乳房の埃りを拭いつづけながら云う。舌と耳とはやろう。その代り、僕に目をくれ。ランボーがアフリカで捨てたあの千里眼をー―。

そりゃどうかな?木男の幾条もの手はそろそろ僕を捕えた。

そして今。僕はここで、人形の群れに混り、毎夕、小屋の呼込みをやっている。この芝居の批評もこちらへ送って下さい。(昭和三十九年四月「二十四時五十三分“塔の下”行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」プログラムより)

戸山ヶ原での「腰巻お仙・忘却篇」の上演にたどりつくまで、新宿日立レディスクラブホール、日仏会館、俳優座ホール、はたまた厚生年金の結婚式場の隣りといった風に芝居上演場所を転々としたのですが、いよいよ町の中に明されるべく出かけてゆく時、その町には必ず自警団なる自己閉鎖集団が待ちうけ、私たちの芝居は町から町へとさすらう運命になった。

 当時の「腰巻お仙・忘却篇」の観劇評を堂本正樹は低俗不浄による劇の発見と評しておりますが、芝居進行中、やけっぱち錬金術師共の役者の肉体は寒風に刺され、客はといえばてんでに客どうし酒をくみかわし、芝居終演と同時に役者一同うちそろいて地ベたに土下座の挨拶、またしても役者、観客入りみだれてのまわし飲み、ススキヶ原の月は冴えわたっていた。

 私たちの芝居の行なわれる場は、ゆるやかな日常茶飯事、人々の染まる猥雑なる雑踏の地に、“これより悲しみの地に入る”なる呪語をもって聖地創造におもむく感であった。

 さて、この頃私は西荻の女子大のアパートから阿佐谷天沼の一軒家に移っておりました。

 李礼仙と共に全国を金粉ショーダンサーをして稼いだ金で借りうけたこの一軒家は、ささやかな庭と縁側のある家で、垣根にはさんしょの木とか柿の木とかが植わっており、昼ともなるとどこからともなく集ってくる役者で狭い家の中はごったがえし、近くの子供の遊び場を兼ねた公園で体操やら発声訓練とかやったものです。

 数人の役者が夜の巷をほっつき歩き、日が昇ると稽古場の縁側にたどりつき病んでいる肉体を表現へとおもむかせた。

 新宿西口の飲み屋横丁の焼きとり屋で一杯飲んでいる時、突如入団を申しこんだ全学連上がりの役者は、今や優しきミドリのオバさんに熱中し、稽古二時間前に縁側にたどりつきミドリの上衣、黄色い旗、ズック靴の手入れを入念にやり、薄ピンクのマニキュアを爪にほどこし、オバケツケマツ毛をつけ、彼の表情は、あんなにも優しいミドリのオバさんは女に出来得るはずがないとでもいいたげに偏見で一杯なのである。

 その頃うす汚れた手さげかばんの中にいつも青い表紙の小さなノートに詩をかきっけているヒゲの役者がおりましたが、いつの日か、全学連上がりのミドリのオバサンと手に手をとって雑踏の中で信号待ちをしている姿を見たことがあります。

 未だ上野万年町に高速道路が出来る前のごみごみした町中を二人の男女の老人が、走りゆく車と信号機の前でおろおろしている情景を見たことがありますが、今になってこうした若い二人がおろおろしあうとは彼らにとって一体何事であったのだろう。

 夜ともなればかのヒゲ詩人は、はにかみに満ちて自分の詩を朗読し、ミドリのオバサンは詩吟を口ずさみ、又あるものは泥酔の果て台所の包丁でふすまを切り、又あるものは駅前のオデン屋台に走った。

 各々の役者が、どこからやってきて、どこにいて、何をやろうとしているのかに思いをめぐらす時、他人とかかわる時、江戸の介錯人の如き優しき世話人であろうとするものです。

 技術としてのミドリのオバサンが失敗した時など、化粧、衣裳をほどこした町を走らせ、動物愛護病院前で台詞をいわせたりヒゲ詩人には一ヶ月間便所掃除のみ言いつけたりで、痛みをともなった恥と共に役者同志は成長するようであった。

 それから二回の夏が通りすぎ、キャバレーのショー巡りから帰ってくると、私達は、貧乏生活にたたられてか、絶対に損をしない興行——総予算五千円を元手に、文化長身のド真ん中、戸山ハイツのススキヶ原に向った。

 公園課の課長が幸いに、日曜画家であったため、善意で、その場を貸してくれたのは良かったが、文化長屋の教育委員の差し金で、派出所の警官とかパトカーが四台現われ、近所の児童教育防衛隊までが、石を投げる。その少年の姿が、いつか見た映画のパルチザン少年隊とダブって、私たちには、悲しかった。だが、文化長屋も、夜になると何故か弱かった。時こそ晩秋のススキ原。寒さとテレビ恋しさに、住民は寝床に帰ってゆき、ヘッドライトを消したパトカー四台だけが向うの丘の上で息をひそめている。

 横尾忠則のポスター「腰巻お仙・忘却篇」の夜目にも鮮やかなピンクの桃を頼りに、三十人程の客人が一升ビン片手に、辻から辻と、その風の棲家にたどりつき、それを見定めて、照明隊はペダルをこぐ。照明隊とは、二台の自転車で、そのペダルを思いきりこぐとほのかな電気が、役者の顔をてらす。ヒャラリヒャラリコという効果音楽にしても、電池の小さなテープレコーダーであるために、その音のかぼそさといったら――。横の公衆便所の水の落ちる音にすべてをさらわれるってな具合。だが、丘の向うから_¨ゴザ¨_を小脇にやってくる李礼仙の夜鷹に、「ヤイヤイ! てめェーら!」とどやしつけられる時、三十人の客人は、そこで、初めて、その夜路のルージュの中に、腰巻お仙の初期症状をうすら寒き風と共に見つけたにちがいない。

 卒塔婆の林立する悲しみの地よりムックリ起き上ったゴザを抱えた紅いルージュ、それが腰巻お仙であることは決定論というもの。それ迄の私の作品には影ばかりただようて、なかなか現われなかったその人。

 もう、町の中にとびだしてゆく用意はできた。

 新宿花園神社に目をつけて、何が何でもそこに紅いテントを建てようと狙ってみたのはいいものの、コネがなかなかつかめず(私は、この時程、コネという言葉の怨めしき力を感じたことはなかった)、突然、訪問することにした。すると、社務所には、白髪の老婆と、宮司のお年寄りがお茶を飲んでいて、セールスマンか何かと私を思い込み、上等なお茶を出してくれた。伝説に依れば、二百年前のこの神社では、芝居小屋がかかってそれはそれは大変な江戸文化の衛生ポイントであったらしいですな、とか何とかいってるうちに、すぐにでもそこに建てられそうな話がまとまって、この約束大丈夫かなと思いながら、そのことを仲間に伝えた。

 都市の裏から這いよるべき紅いのテントはそこで注文するや、私は、毎朝、駅前喫茶店の「アランフェス」という店で、毎日一時間(これは八時より九時半。これ以上、そこに居ると、セールスマンの打ち合わせがそこでくりひろげられるために、創作不可能)、その一時間のうちに、埋めるべき原稿用紙のノルマは、四百字詰めで三十枚であった。書きとばす時間が速くて、喫茶店を出てからも、ペンが手のひらの上をすべってゆくこともあった。そして十時半から、劇団のメンバーが集まり、近所に気をつかっての猛稽古。

 二日後、花園神社の社務所から、電話が、三百米離れた雑貨屋に入った。かけつけてハイハイというや、案の定、総代会が、疑っているから、あの約束は駄目にするという。あっ、こういうことを懸念していたのだ。駄目ですか、じゃ又会う日迄と電話を切るわけにもゆかず、一寸待って下さいな、御老体。すぐ、そちらへ行って、我らの演劇がいかに、御老体をも魅きつけずにはおかないかということをお見せしますから、結論を急がないで下さいと私はいった。そこで、今、すぐ総代会に見せるわけにはゆかんから、一週間後に、神社のビルの二階にあるホールで披露されたしということになり、まだ出来上っていない「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇」を、腰巻では元も子もなくすだろうといぶかって、月笛お仙という名に一応なおして、ネクタイしめて(メンバーの中には、この時、生れて初めてネクタイをつけた者が大部分であったらしい)、神社ホールにかけつけた。だが、ホールに入って、ドーラン塗りたくったはいいものの、来ているべき総代会の老体は、一人も居らず、私が、初めてここの社務所に話を持っていった時のあの宮司とお婆さんにその子供たちが、まるでバザーの余興でも観るつもりで、待っていた。「総代会の人たちは?」と私が宮司に聞くと、「おそいね」としか彼はいわぬし、コンニャク談義ではラチが明かぬ。いくら、ここで、「腰巻お仙」を、この場限りに上品に捏造してみたところで、くたびれもうけではないか。

 こんな私の心配をよそに、待ちくたびれた役者群は、喜々として「腰巻お仙」上品版を演じはじめた。だが、いつもは、このホール、お花の会とか、着物の展示会につかわれる素寒貧な空間。もともと、テントの中で演じられるべき「腰巻お仙」には、いかにも窮屈で、いくら荒事をやってのけても、只、無暗やたらに暴れているだけ。観劇の婦女子や老人は、顔を見合わせ、白け返って、お茶でも飲みましょうか、お爺さんというのであった。結局、誰も居なくなり、私は、まだ暴れている役者群に「もう、いいよ」といった。

 果してどうなることか。ドーランのまだ落し忘れている顔が、再びネクタイを締め、何卒よろしく、と社務所に伺いを立ててから、電車に乗って帰ったのは、まだ真昼間。一体、出来るのだろうか出来ないのではといった不安が、何日もつづいて、出来ないことはない。許可されなくとも、紅いテントをおっ立ててしまおうと思いつめて一週間。もう夏に入り込んでいた。社務所に電話をかけて「総代会は何といってました?」と聞きただすと、宮司は「何のこってす?」というのである。

 これ程、雲をつかむような詮索は無意味と、もう電話をすることもなく、真夏の新宿公演に向った。風が吹き荒れ、埃りが舞って、紅いの肌がひるがえると、私は、そこに演劇を始めてから、やっと一つ手に入れることの出来た様式の何たるかを知った。私は今迄何者でもなかった。これからは、この紅い化け物を盾に、否、この紅い生き物に肉化した無名の私として町を征こう。

(状況劇場主宰)

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東宝第二演劇部はいつ廃止されたか?

西堂行人『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』は、佐藤信(劇作家・演出家・俳優座養成所第十四期・一九六五年卒)の発言として以下のように記録している。

N——俳優座養成所に三年間いて、卒業した時にどういう方向を考えていましたか。劇団を創ろうということは?

佐藤——まず、卒業する一年前に行こうと思っていた東宝第二演劇部というのがなくなってしまった。(東宝には)第一演劇部と第二演劇部があって、第一は芝居、第二は日劇のレビューやミュージック・ホールの演出をやる。僕はその第二演劇部に行くものだと将来の目標をしっかりと決めていた。でも、なくなっちゃったんです。……それで観世栄夫さんに「俺、行くとこないんですけど」って言ったら、「それじゃあ青芸に来る?」「じゃあ行きます」って。

『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』(二〇一五年、作品社)一一八—一一九頁

しかしこれは正しくない。佐藤が俳優養成所を卒業した前年だと、一九六四年ということになるが、以下に示すように、一九五八年に設立された東宝第二演劇部が廃止されたのは一九六九年である。

昭和33年1958

4月4日 本社総務部より人事部を独立。本社経理部より管財部を独立。演劇を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場第2劇場、NDT、東宝演芸場、OSミュージックホールなどを所管)に分割。本社に劇場部を新設。関西支社の部制を廃止。

昭和44年1969

3月1日 文芸部を廃止、「製作総務室」「映画企画部」を新設。演劇部の第一演劇企画課、第一演劇制作課、第二演劇企画制作課、第二演劇演芸課を廃止、「制作室」「企画課」「制作課」「東宝現代劇」を新設。「財務部」を新設。調査室を廃止、「情報調査室」を新設。管財部を廃止、「不動産経営部」を新設。映画興行業務部を「映画興行部」と改称。事業・開発部を「事業部」(現・映像事業部)と改称。東宝会館、日劇会館を廃止。

『東宝75年のあゆみ ビジュアルで綴る3/4世紀』編纂委員会・東宝株式会社総務部『東宝75年のあゆみ 1932-2007 資料編』(東宝、二〇一〇年)

佐藤は一九七四年三月二日〜四月二十三日日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』を演出したが、その際インタビューアー岬圭一に答えて、以下のように答えたことが上演パンフレットに掲載されている。

佐藤信 卒業の時、東宝に入ろうか青芸に入ろうか迷いました。

——東宝は、どの劇場ですか?

佐藤信 第二演劇部ですから日劇ミュージックホール、あるいは日劇です。でも東宝は会社員になることでしょ。ネクタイいやでね、そこで青芸の研究生になりました。

インタビューアー岬圭一「佐藤信 大いに語る」日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレット

聞き書きの相手が誤って記憶していることはよくあることなので、それを訂正できなかったのは取材者である西堂の落ち度だ。

西堂は佐藤の発言を聞いて、日劇ミュージックホール『春に舞う妖精たち』上演パンフレットにあたるべきだったか? もちろんそんなことはない。けれども第二演劇部がなくなっても日劇やミュージック・ホールのレヴューがなくなったわけではないのだから、青芸を選んだ理由としてはおかしい、というごく単純な推論ができなかったのは批判されるべきである。

なお『東宝五十年史』には「一九五八年四月四日付の職制改革によって演劇部は第一演劇部と第二演劇部に分割された」(四七一頁)とある。また「演劇部を第一演劇(東京宝塚劇場、芸術座を所管)と第二演劇(日本劇場、日劇ミュージックホール、日劇ダンシングチーム、東宝演芸場、OSミュージックホール等を所管)とに区分したことであった」(二一九頁)という記述もある。おそらく同年二月に日本劇場で第一回ウェスタンカーニバルが開幕し大ヒットしたこともあって、演劇部の業務が増え、「演劇」と「芸能」の制作を切り離すという判断がなされたのだろう。

これもまた、知る必要はないことだ。だが、一九六六年九月に新しい帝国劇場の開場を控えていた東宝が、一九六四年時点で演劇部を再統合するには余程の理由がないといけない、ということも思い至るべきではなかったか。

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談志は志ん朝を評価していたか

談志は志ん朝を評価していたか
談志が世間の評価と異なり志ん朝をうまいとは思っていなかったのは、落語を多少知っている人間にとってはごく当たり前のことだと考えていた。

だがツィッターでそう呟いたら反論をいただいたので、あらためてそのことを説明してみようと思う。

松本尚久(現・和田尚久)編『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)所収の拙論「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」の最後1/3は実は談志論になっている。

矢野誠一や小沢昭一にならって、落語のうまさの基準の一方の極に「語り」を置き、もう一方の極に「描写」(=「リアリズム」「写実」)をおいて考えたとき、六代目三遊亭圓生や五代目立川談志らが「描写」に重きを置いたために、「語り」だけに傾注した三代目三遊亭金馬・八代目林家正蔵はセコと言われるようになった、というのが拙論の趣旨である。

その際、ハラルト・ヴァインリッヒに依拠して<はなし>=<緊張>と<かたり>=<緊張緩和>という二つの発話態度を区別した坂部恵(『かたりー物語の文法』)にならい、昭和戦後期落語においては、圓生や談志といった<はなし>派は、矢野が指摘する「落語の文学化」を行い、リアリズム演劇のように入信の演技で人物を描写してみせたが、志ん生は彼ら<はなし>派と、金馬や正蔵といった<かたり>派の間に立って、<かたり>つつ<はなし>をする、すなわち、緊張と緩和のあいだを往き来する、多くの落語家が無意識に実践してきたやり方で通した、ということを述べた。

息子の志ん朝は父親のような「正統な落語」をめざし、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させたのだが、その志ん朝を談志はこう批判する。

ある時、テレビで志ん朝の落語やってましたが、落語リアリティから言ったら、もう部分部分は人物造形も何も下手くそでね。柳好のように歌い上げるリズムだけで演っているつもりならともかく、当人は内容勝負の作品派、現代の円生、いや、ひょっとすら文楽のつもりなんでしょう。それがあんな不調和なリズムで演られたら、「どうなんだい、これは」って思った。人間観の深みがあるわけでもない、それでも若い頃はスピードもあったしリズムも良くて、客を酔わせ、会場を熱気に叩き込むことが出来たでしょう。その勢いがなくなっていた。『人生、成り行き 談志一代記』(2008年)

たしかに昔は「唄い調子」と呼ばれた柳好のような<かたり>派の一人として談志は志ん朝のことを評価していた。79年東横ホールで「品川心中」を演じた談志は枕でその直前に志ん朝が演じた「愛宕山」を激賞している。ところが今の志ん朝は<かたり>派に徹し切れておらず、圓生のような<はなし>派に色目を使ってる、それは中途半端で「下手くそ」だ、というのが談志の言わんとしていることだろう。志ん朝にとって<はなし>と<かたり>の往還運動は<かたり>一辺倒からの進歩だったが、談志にとってそれは退化だった。

ここから先は拙論を引用してみる。

 円生の芸を受け継ぎ、円生を超えた(と考えていた)自分の「演技」志向から一線を置いていた志ん朝の態度に談志が苛立ちを感じていたこともうかがわれるが、<かたり>つつ<はなし>をする、緊張と緩和のあいだを往き来する「正統な」落語一般に談志の批判の矛先は向けられていたとみるほうが自然である。  というのも、談志は志ん朝が目指していた「うまい」芸が行き着く先を見抜いていたからだ。<かたり>と<はなし>を往き来しながら、筋の緊密な構成が生み出す息苦しさを語り手の個性が和らげる、そんなバランスのとれた「うまい」芸をできるようになった芸人はいつか面白くなくなる。なぜならそれは技術による達成だからであり、人間心理への深い洞察なしに成立するからである。「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」

 そのような(技術的な)「うまさ」を談志はうまさだとは思っていなかった。この技巧において「うまい」噺家として談志が挙げるのは八代目桂文治である。

[八代目桂文治は]おれたちが入った頃はもう面白くも巧くも何ともない、ヘンな声と抑揚でやっていました。あれはテクニックだけでやっていると、つまり「巧い」を極めるやり方で行って、技術的に完成してしまうと、人間、やりようがなくなっちゃうんでしょうな。ヘンな方向へ行っちゃう。『人生、成り行き 談志一代記』

つまり、談志は志ん朝の行く末に八代目桂文治を重ねていたのだ。

今回ツィッターで議論の焦点の一つになったのは、談志が繰り返し語っている、志ん朝に「志ん生になれよ」と襲名を薦めた、という逸話の部分。志ん朝から「兄さん、口上言ってくれるかい」と頼まれて談志は「もっと上手くなれよ」と答えた、と書いている(『談志絶倒昭和落語家伝』『名跡問答』)し、音源も残っている(「立川談志の人物話 落語家 古今亭志ん朝」)。この音源では「そのかわりもう少しうまくなれよ、と言った」とまず言い放ち、自分でも「すごいねこれ」と注釈をつけたうえで「下手だと言っているんじゃない、もっとうまくならなきゃあかん、といっているんです」と言い直している。

私などは音源での「もう少しうまくなれよ」という物言いを聴いただけでも、談志は最初から志ん朝のことをうまいと思っていなかったのだな、と思えるのだが、そうではない、今も「うまい」と思っているけれど「もっと」うまくなれ、と言っているだけだろう、と反論されれば、そうではない、とは言い切れない。

この音源では続いて談志は自分の発言の真意として「彼の持つ技芸のやり方の限界を超えろ、と言っていたのかもしれない」と述べている。『談志絶倒昭和落語家伝』でも、志ん朝が死んだのはよかったのか残念だったのかわからない、というのは「志ん朝からは、”あれ以上のものがでてこなかったかもしれない”という思いが源になって」いるという意味ではよかったが、「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」ので残念だ、と述べている。

志ん朝の「限界」を見きわめている自分は、落語が、落語という制度が、誰よりもわかっている。談志はこの一連の発言のときそう思っていただろう。だからこそ、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させた志ん朝が余計に中途半端に、「下手くそ」に見えた。晩年「イリュージョン」を言い出すまで、談志にとって(「本当の」)うまさの基準はあくまでも「描写」であり、<はなし>の出来映えだった。「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」という発言は、自らのイリュージョン理論に照らして再度志ん朝への評価を変える準備はあったことの証拠だ。そういう点で談志は自分に正直で、公平な人だった。ライバル意識や嫉妬が談志の志ん朝評価を曇らせた、というような俗説を私はとらない。正直な気持ちで、志ん朝には「限界」があるし、「もっとうまくなれる」と思っていたのだろう。志ん朝の時ならぬ死でそれも適わなくなった。だから、談志の最終的な評価は「うまくなる可能性はあったが、うまくはない」というものだったと私は考える。

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ダンス・ミュージカルとしての『ホワイト・クリスマス』

『ホワイト・クリスマス』White Christmas(1954)は、とくに日本ではあまり評価されていないように思える。

ブロードウェイの人気スターで、作詞家・作曲家コンビでもあるフィル(ダニー・ケイ)とボブ(ビング・クロスビー)が、フロリダで姉妹芸を演じているベティ(ローズマリー・クルーニー)とジュディ(ヴェラ=エレン)と知り合い、四人でヴァーモント州パインツリーに雪とスキーを期待して出かける。あいにく雪は降っておらず、四人が泊まったホテルは閑散としていたが、そのホテル、コロンビア・インのオーナーは第二次世界大戦で従軍したボブとフィルの上官、ウェイバリー少将(ディーン・ジャガー)だった。軍に復帰したいと願うが年齢のためにかなえられず、失意に沈む元上官のために、二人は所属していた第151分隊の10周年の同窓会を少将に内緒で企画する。

というその物語は、とくにつまらないわけでも、無理があるわけでもないが、起伏に欠け、結末では二組のカップルが成立する予想通りの展開で物足りなさを感じる。

そもそも、アーヴィン・バーリングの戦前のヒット曲で、『スイング・ホテル』Holiday Inn(1942)でも主題歌となった「ホワイト・クリスマス」を再度取り上げるという構想が最初にあっての作品だから、面白く作るのは難しい。しかも、フレッド・アステアとビング・クロスビーのコンビでアーヴィン・バーリングの楽曲を歌わせる、という『スイング・ホテル』には、すでに二匹目のドジョウとして『ブルー・スカイ』Blue Skies(1946)がある。二番煎じならぬ三番煎じの作品への出演を打診されたアステアは断り、かわりに『ホワイト・クリスマス』ではダニー・ケイがクロスビーと組むことになった。アステアの判断は賢明だったと思う。

それでも合衆国ではそれなりの評価を受けているのは、クロスビーの歌声と佇まいを変わらずに愛し続ける人々がいるからであり、また自分の国を守る軍隊への敬愛の情が生き続けているからだろう。

クロスビーの魅力は、その凡庸さにある。「普通に」ハンサム、「普通に」いい声、「普通に」温厚(そう)な性格。その「普通さ」が特別な価値を持っているように感じられたのは、当時の合衆国でヨーロッパ系白人が社会の中枢を占めていたからだ。強烈な個性や他を圧倒する才能、あるいは血のにじみ出るような努力の跡がなくても、生来備わった美質だけでクロスビーのような金髪で青い目の人間はスターになれた。いやむしろ個性や才能や努力の跡が放つ熱のようなものは、物事の価値や基準がすでに決められており、挑戦されることのない社会では敬遠された。育ちがよさそうで、はげしく自己主張をすることのないクロスビーのような人が、正しく美しいとされた。社会が大きく変化し白人中心主義が鋭く批判されるようになった現在でも、クロスビーやその同類の人たちを——「古き良き時代」へのノスタルジア込みで——愛する観客はいる。

厳しいが人情味のある上官のためにかつての部下たちが勢揃いする最後の場面は、戦争が終わって十年足らず、復員軍人がそこら中にいた公開当時はもちろんのこと、現在でも一定の訴求力はあるはずだ。『愛と青春の旅だち』An Officer and a Gentleman(1982)をはじめ「鬼教官もの」はハリウッド映画ではお馴染みのものだが、『ホワイト・クリスマス』では、クロスビー、ケイ、クルーニー、ヴェラ=エレンという主役四人の歌とダンスを見せることに焦点が当てられていることもあって、その主題は掘り下げられていない。だが「鬼教官もの」の骨組みしかないのは、作り手が技術的に未熟だからというよりむしろ、肉付けせずとも観客は軍隊への敬愛の情を膨らませるはず、と作り手がしたたかに計算をしているからなのだ。一般に、作り手と観客とが一つの文脈を共有しているとき、作り手の「思わせぶり」な身振りは、はっきりと明言されたときよりも観客に強烈な印象を残す。黙説法は、受け手が「省略された部分」について自らの想像を膨らませるからこそ効果を発揮する。軍服姿の軍人を街中で見かけると、周囲の人が敬意と感謝のこもった目を向ける、そういう社会だからこそ通じる「さらりと流す」表現として同窓会までの実現が描かれる。

だが現代の日本人にとって、『ホワイト・クリスマス』を多少なりとも見られるものにしているこの二つの要素は、想像はできても実感をもって感じられるものではない。クロスビーはスターとしてのオーラに欠ける二流の俳優に過ぎないし、軍隊への敬愛の情がなく、勝利を収めた自分たちの軍隊が帰還するのを歓呼を持って迎えた経験もない私たちには、感動的なエピソードになるはずのサプライズ同窓会の計画が淡々と語られることに軽く失望を覚える。しかもクロスビーとクルーニー(ジョージ・クルーニーの伯母で、51年には”Come On-a My House”をビルボードチャート1位にした)の歌はともかく、踊りは冴えない。ケイもその愛嬌はわかるが、全盛期ミュージカル映画に出演する俳優としては歌も踊りも魅力がない。

そしてアーヴィン・バーリングのヒット曲をずらりと並べた「歌もの」ミュージカル映画としては物足りないのは、合衆国の観客にとっても同様だろう。同じぐらい物語が薄くても、『世紀の楽団』Alexander’s Ragtime Band(1938)とか、『ホワイト・クリスマス』と同年に公開された『ショウほど素敵な商売はない』There’s No Business Like Show Business(1954)のほうが、バーリングの楽曲を楽しめる。どちらにもエセル・マーマンが出ているし。

だがこの映画には別の魅力がある。玄人好みのするダンスを踊ったヴェラ=エレンを出演させ、ジョン・ブラシアというダンスの名手をパートナーとして競演させているところだ。

これは言葉で説明するより、見てもらったほうが早い。ヴェラ=エレンは「マンディ」”Mandy”で最初クロスビーとケイとを従えて踊るが、二人の実力に合わせて優雅だがそれほど運動能力の高さを示す必要のないダンスを踊る。だが途中でブラシアが出てくると俄然本領を発揮し、先ほどまでとは違うキビキビとした動きを見せる。

次の「コレオグラフィー」”Choreography”というナンバーでもヴェラ=エレンはケイと踊るが、垂直方向への驚異的な跳躍を見せて途中から登場するブラシアのほうが明らかに目立っている。(なお、YouTubeのコメントに、このナンバーがマーサ・グラハムのモダンダンスのパロディで、セットはグラハム「アパラチアの春」Appalachian Springを模したものだ、という説明があった。ミニマリストの簡素な舞台は似ていなくもないし、「コレオグラフィー」という題名も、また群舞の女性たちが着ている濃い灰色の貫頭衣も、モダンダンスのパロディのような気もするが、「アパラチアの春」のアーロン・コープランドの素朴なメロディと、「コレオグラフィー」の金管楽器の派手な音が特色のジャズとは似ても似つかない。)

だが二人のダンサーとしての実力に真に圧倒されるのは、「エイブラハム」でのヴェラ=エレンとブラシアのデュエットだ(それまでの二つのナンバーと違って、クロスビーもケイもまったく絡まない)。これほど鬼気迫る、緊張感溢れるミュージカル映画のデュエットは、ほかに『踊るニュウ・ヨーク』Broadway Melody of 1940(1940)でのフレッド・アステアとエレノア・パウエルのダンス——とりわけ「ジュークボックス・ダンス」——ぐらいしかないのではないだろうか。

ちなみに若き日のジョージ・チャキリスもクルーニーが歌う「つれない恋」”Love You Didn’t Do Right By Me”で踊る四人のダンサーの一人として登場するが、とくにそのダンスの巧さに印象づけられるということはない。

「歌もの」ミュージカル映画として見ると、歌を吹き替えているヴェラ=エレンはこの作品には相応しくない。そもそもヴェラ=エレンの尋常ではないダンスの巧さを各映画スタジオは扱いかねていたところがあり、それもあって彼女は早期に引退したのではないかと思うのだが、『ホワイト・クリスマス』では物語とナンバーの統合を全く無視して、物語には全く無関係のジョン・ブラシアと踊らせることで、彼女の見せ場を作った。それが『カサブランカ』の名匠マイケル・カーティスの指金であったかどうかは寡聞にして知らない。だが正しい判断であったことは間違いがないだろう。

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コルトレーンのアルバム『インナーマン』について

John Coltrane “My Favorite Things” の録音は数十あると思われる。

そのうちベストテイクが何か、についてはジャズファンの中でも議論が分かれる。コルトレーンがソプラノ・サックスに持ち替えて冒頭で一オクターブ高く吹く1963年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音がよいというのは妥当な意見の一つだろう。マッコイ・ターナーのピアノ、ジミー・ギャリソンのベースは変わらないが、ドラムはいつものエルヴィン・ジョーンズに変わってロイ・ヘインズが叩いている。エリック・ドルフィーが離れ、1965年の『アセンション』で完全にフリージャズへと切り替わるつかの間の、少しポップに戻った頃の演奏だ。

とはいえ、コルトレーン・カルテットのキモはエルヴィン・ジョーンズのドラムだとかたく信じている私は、どちらかといえば(CDだと同じ一枚に収録されている)1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音のほうが好きだ。冒頭の強烈なシンバル四連発はスピーカーで聴いていてもぐっとくる。この録音はインターネットのリンクでは示せないので、かわりにあまり話題にされず、ほとんどなかったことになっているライブ・イン・ジャパンの57分の演奏を。メロディラインを解体するフリージャズの骨法は1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音ではあまり目立たないが、こちらでは最初から徹底している。中盤以降になってメロディが出てくるまで、なぜこの演奏に「マイ・フェイバリット・シングス」と名がついているのかすらわからないぐらいだ。

もっとも最初に私が聞いたテイクはアルバム『インナーマン』に収録された、バードランドの1962年のライブ録音だった。大学生のときCDを買って以来愛聴盤だったが、いつの間にか紛失してしまった(人に貸してしまって戻ってこなかったのかもしれない)。刷り込みとは恐ろしいもので、その後上記を含むさまざまな演奏を聞いても、『インナーマン』版のほうがよいように思えてしまう。記憶の中で美化されていくから尚更だ。

『インナーマン』のCDはその後なかなか見かけず、中古市場でたまにあっても高くて手が出ないでいたのだが、この数日思い立ってデジタル化した音源を求めて探し回り、調べてみて知らないことがいくつかわかった。まず、『インナーマン』Inner Manとは、テイチクが日本盤LPを1977年にを出したときにつけた名前である。Vee Jay Recordsの音源で海賊版に近いものだ、という噂は聞いてことがあったが、まさか日本だけ別の名前とは。合衆国ではLive at Birdland 1962で出ているようだ。ただし、私が今回デジタル音源を入手したAmazon.comではAt Birdland 1962とわずかに異なる名前になっている。しかもColtraneで検索をかけてもこのアルバムは出てこない。

また『インナーマン』とLive at Birdland 1962とは曲順が違う。ここで説明されているようにCD『インナーマン』の曲順は、

  1. My Favorite Things
  2. Body and Soul
  3. Mr. P.C.
  4. Miles’ Model

だが、Live at Birdland 1962では以下のように前半と後半が入れ替わっている。

  1. Mr. P.C
  2. Miles’ Model
  3. My Favorite Things
  4. Body and Soul

だがこれはおそらくLPのときのA面とB面を交換したのであって、二枚は同一のものである。しかも売れ線の”My Favorite Things”を一曲目に持ってくるのは意図的な選択であって間違いではないはずだ。

それからやっかいなことに、ふつうLive at Birdlandといえば、これはインパルスから1963年に出たアルバムで、CDだと6曲入りでなかでも“Afro Blue”が有名だが、“My Favorite Things”は入っていない。おそらくテイチクが『インナーマン』とつけたのはこの有名なアルバムと紛らわしいからではないか。なおLive at Birdland 1962の説明では、オリジナルCDはル・ジャズからLive At Birdland 1963として出た、とあるがこの点については調べてもこれ以上のことはわからなかった。日本盤CDとどちらが先なのだろうか。

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「子音をはっきり発音する」とはどういうことか

朝日新聞に「アラジン」初日の劇評を書いた(全文閲覧には無料登録が必要)。幾人かの友人知己から反響があったが、最後の段落で四季の母音法について苦言を呈したことで、ご不快に感じられるのではないか、と内心恐れていた方からも「よくぞ言ってくださった」との言葉をいただけたのはとりわけ嬉しかった。

鋭い指摘もあった。「子音をはっきり発音する四季独特の発声法ゆえに」と書いてあるけれど、劇団四季の発声法は「母音法」と言われているのではないか、「子音をはっきり発音する」とはどういうことか、というものだ。ここは自分でも書きながら、約七〇〇字という字数に収めるのに苦労した箇所だ。結果として言葉足らずになったことは否めない。その際に回答したことを以下に再録し、劇評の補足としたい。本当は七〇〇字で意を達しなければならないのだけれど、修業不足ということで大目に見ていただければありがたい。

母音法について、浅利慶太は以下のように説明しています。

[浅利の知己の音楽家]は、「音」の明晰さは「音量」ではなく「分離」によって生まれると言ったのです。この言葉には大きな刺激を受けました。演劇における台詞にも同じことが言えるのではないかと。そして試行錯誤の結果、「あいうえお」の五つの母音を等間隔に分離して話せば、言葉が明晰に聞こえるとうい結論に達しました。……
他にも幾つかの法則を発見しました。例えば「あしたは雨だ」と言う時、「あしたは」の「は」は「WA」、「雨だ」の「あ」は「A」となり、同じ音ですから重なって聞こえやすい。これを明快にするためには、後ろの「A」の音の共鳴を変化させ、前の音より少し高く発音すれば、分離して聞こえるようになります。これが「同母音共鳴変化の原則」です。
「あしたいく」の「TA」と「Iの場合にも共鳴変化は必要で、この場合は「異母音共鳴変化の原則」となる。また、「行ってくる」「買って来い」などの促音は「ITTE」であって「ITE」ではありません。「いてくる」ではなく「いってくる」と発音するためには、「T」をもう一つ増やし、しかもこれを1つ無声化しなければならない。これが「連子音無声化原則」。「大阪」や「天気予報」は、「おーさか」「天気よほー」というように、しっかり伸ばして発音しないと正しく聞こえません。これを「長音の原則」と言います。他にも、こうした法則をたくさん発見しました。
 これを意識しながら、まず台詞や歌詞を、言葉の土台である「母音」だけで発音し、明晰に母音を分離する感覚を体に入れ込んだ上で、子音に乗せて言葉を発する訓練と技術、これが四季の「母音法」です。

「『ラ・アルプ』特別号 劇団四季創立六十周年に向けて 演出家・浅利慶太インタビュー」6−7頁

私が「子音をはっきり発音する」と書いたのは、ここでいうところの「連子音無声化原則」のことです。「無声化」ですから厳密にいえば「はっきり発音する」わけではないのですが、限られた字数で説明するためにあのような表現になりました。言うまでもなく、ITTEと発音することでITEより一拍遅れます。それが地の台詞の会話でのテンポの悪さの一因になっているわけです。

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Showboat (1936) の演技論

一九三六年版『ショウ・ボート』(ユニヴァーサル・ピクチャーズ)の後半は初演の舞台脚本とも、もちろん一九五一年版のMGM版『ショウ・ボート』とも展開が異なる。

もっとも目立つ違いは、マグノリアのもとを去ったゲイロードが劇場のドアマンになり、彼の勤める劇場でキムが演じることになって、ゲイロード、娘の晴れ姿を見にやって来たマグノリア、そしてキムという親子三人が再会するのが劇場となっていることだ。これは三六年版がバックステージものの要素の比重を重くしていることを示す。

さらに興味深いのは、この場の少し前で、舞台女優を引退するマグノリアがキムに(まるで歌舞伎役者のように)「後を継がせる」ことに決めて、ピアノを引きながら稽古をつけている場(初演舞台にはない)で、以下のような演技論が交わされることだ。マグノリアの母パーシーも同席しているので三人の会話となる。

Magnolia: Kim, darling, don’t you think you’re pressing just a little bit too hard?
Kim: How do you mean, mother?
Parthy: Don’t throw it at them.
Magnolia: Let the audience feel the sentiment of the song for themselves.
Parthy: Remember the folks in the gallery.
Kim: So many things to learn.

マグノリアがするキムへのダメ出しの要点は「押しつけがましくするな」「自分の力で表現しきらず、意図的に表現しない余地を残しておいて、それを観客の想像力に委ねろ」ということだろう。舞台表現に関わる普遍的な真理だとはいえ、俳優は登場人物として感じている内面の感情を歌やダンスのナンバーにのせて百%出し切るべし、というのが本来のミュージカルのイデオロギーであることを考えると少々驚く。

しかも、パーシーは”the folks in the gallery”のことを考えろ、と言う。「天井桟敷の観客」(パーシーは指を上に向けて指し、そのことを示唆する)は見巧者だから、百%出し切るような「クサい」演技をしたら見透かされるぞ、と警告しているのだ。

名優の芸談を読んでいるときに伝わるのにも似た、深い話だ。同時にこれは「直裁に言わず、ほのめかす」近代リアリズム演技のイデオロギーがすでに一九三六年時点でミュージカルの世界にも入り込んでいたことも示している。

ちなみにジュネス企画の日本語版で “don’t you think you’re pressing just a little bit too hard?” の字幕は「思い込みが強すぎるわ」となっており、パーシーの “Don’t throw it at them” は「力を抜いて」と訳されている。当たらずとも遠からず、というような訳だが、字数の制限を考えるとなかなかうまく本質を言い当てていると思う。

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レビュー映画としての『花くらべ狸道中』(六一年・大映)

『花くらべ狸道中』(六一年一月)は『初春狸御殿』(五九年)に続いて大映が市川雷蔵・若尾文子・勝新太郎を起用して撮った作品で、広い意味で「狸御殿」ものの系譜に属するといってよい。ただし監督は木村恵吾ではなく田中徳三なので、通常は「狸御殿」ものの中には数えられない。田中は同年六月に封切りの『ドドンパ酔虎伝』も監督しているが、同年八月封切り『鯉名の銀平』九月封切り『悪名』でわかるように、後年は雷蔵と組んでの「眠狂四郎」シリーズ、勝と組んでの「兵隊やくざ」シリーズが有名で、ミュージカル映画を手がけたのは監督となって駆け出しのこの時期だけのようだ。

『花くらべ狸道中』の脚本は『阿波おどり狸合戦』(五四年・大映)を含む、戦前からの「狸合戦」シリーズ四作を書いた八尋不二だが、物語はそれほど語るに値しない。文福狸(見明凡太朗)を党首とする江戸文福党と、文左衛門狸(葛木香一)を党首とする阿波徳島党が狸王国の総選挙で対立している。前年の六〇年六月には新日米安全保障条約の批准を阻止しようと全学連が国会に突入して樺美智子が亡くなり、十月には浅沼稲次郎日本社会党委員長が日比谷公会堂で演説中右翼少年に刺殺される事件が起こっているから、この当時が「政治の季節」であったことは間違いないが、後述する一点をのぞき、具体的な現実の政治への言及だと思われる箇所はない。もっとも「狸合戦」では(民話にもとづき)阿波国での対立が描かれるのに対し、『花くらべ狸道中』では江戸と阿波という対立軸が導入されるのは興味深い。この頃、東京と地方の利害対立がクローズアップされるような事件があったのだろうか。

文福狸が放った刺客によって江戸へ向かう文左衛門狸が負傷し、名代として雷吉狸(市川雷蔵)と新助狸(勝新太郎)が江戸に赴くことになる。二人はそれぞれ弥次郎兵衛と喜多八という人間に化けるので、弥次喜多ものの要素が取り込まれる(道中ものにする必要があったので、江戸と阿波の対立にしたのかもしれない)。弥次喜多もの同様、面白おかしいエピソードで綴っていく。落語「狸賽」をなぞったりする場面もあるが省略。雷吉をめぐっての恋人たより(若尾文子)と文左衛門の娘しのぶ(近藤美枝子)の恋の鞘当てもあるが、そこら辺も省略。

雷吉と新助はたよりとともに文福に捕らえられるが、たよりが零した涙が真珠に変わり、三人を縛っていた魔法の鎖を消してしまう。それを見ていた文福の娘きぬた(中田康子)が改心して二人を逃がしてやる。文福が待ち受ける会議場に向かう二人。十二時までに文左衛門が現れなければ文福が大王就任が決定することになっている。二人が会議場にたどりつくと、はたして文福が槌を振り下ろして自分が大王となる決定を下そうとしているところだった。だがなぜか文福は振り上げた腕に痛みを感じて動かせなくなる。きぬたが駆け寄り、「こんなことをして大王になれても、誰も幸せになりません」と言って強引に決めようとする父親を翻意させようとする。

ここに反映されているのは、第二次岸信介内閣下のもとでの、社会党議員を国会から排除しての新条約案の強行採決に際して多くの国民が抱いたであろう漠然とした反感だろう。だがもちろん、それは現実の政治にたいする痛烈な諷刺といったものではないことは、その後のご都合主義的な展開で明らかだ。痛みにのたうち回る文福に、雷吉は「過ぎ去ったことは忘れて、仲良く楽しく、ともに栄えていこうと思わんのか」と声を掛け、続けて新助も「それを誓えば神様もきっと許してくださる」と言う。それを受けてきぬたが神に祈り、文福が「神様、助けてください」と叫ぶと、痛みは消える。文福はすっかり反省して雷吉が「本当に仲良くすることを誓うか」と尋ねると「誓う、誓う」と答える。折よく文左衛門が到着し、大王に就任する。リアルポリティックスの力学ではなく、あくまでも「庶民」の「素朴な視点」からの「仲良くやっていく」という思想は神の介入によってのみ実現されうる。

レヴュー映画としてはどうだろう。『花くらべ狸道中』は『初春狸御殿』と同様、大阪松竹歌劇団が出演し、飛鳥亮が振付をしている(厳密に言うと、飛鳥は『花くらべ狸道中』では「舞踊構成」、『初春狸御殿』では「舞踊振付」。後者では別途「振付」として西崎真由美。飛鳥が「和物」の振付のみを担当していたことを示している)。音楽は浜口庫之助。ハワイアン・ジャズ・ラテンといった音楽の素養がありつつ、日本風の旋律を巧みに使ったヒット曲で知られるこの人を起用したことが、「狸御殿」ものの中でこの作品の特筆すべきところだろう。

踊りの場面は七つある。最初は阿波踊りで、雷吉と新助が本物の弥次喜多と出会う場面。雷吉は夢中になって踊っているうちに尻尾を出してしまい化けの皮がはがれる。カメラを傾けるなど踊りのダイナミックさを出している本多省三の撮影が印象的だ。スクリーンショット 2015 03 22 11 29 55

二つ目は「大原女」で、弥次喜多に化けた雷吉と新助が京・三条大橋に到着するとゲスト出演のスリー・キャッツが頭の上に花を入れた籠を載せた大原女の装束で登場し「〽京は宵の町〜」と歌い出す。その背景で大原女と舞妓の格好をしたOSKの人々が日本舞踊を踊る(長唄「大原女」の振付と似ていなくもないが、よくわからない)。スリー・キャッツは放送禁止になった浜口庫之助「黄色いさくらんぼ」(「〽若い娘はウッフーン」)で知られている。浜口とのつながりで起用されたものか。スクリーンショット 2015 03 22 16 13 52

大原女が行き交いした三条大橋を舞台にしたもう一つの理由は、雷吉と新助が泊まる宿屋が池田屋だから。ここで偶然同宿することになった絵描きというのは、きぬたが化けた姿で、二人をおびき寄せる計略だった。むせ返るような色気という形容がふさわしい中田康子が演じるきぬたが歌を歌いながら新助を誘惑する場面では、回転ベッドが使われ、大変エロティックだが、踊り、というほどのものはない。

三つ目の「桑名」では、ロカビリー歌手で初期ザ・ドリフターズのボーカルでもあった井上ひろしが「〽桑名の坊さん 時雨の夜に〜」とお座敷唄「桑名の殿様」をもじったような歌を歌う背景で六人の男性ダンサーが腰蓑を着け櫂をもった漁師姿で踊る。スクリーンショット 2015 03 22 16 10 52

四つ目は「ちゃっきり節」。三島宿三保屋で、堅物の雷吉の度重なる忠告に嫌気がさして別れた新助が、茶摘み娘に扮した芸者の五木みどりたちとともに踊る。この場面の勝新太郎の踊りの、粋で軽みのある仕草は、何度見ても素晴らしい。和製アステア、という存在がいるとしたら、若き日の勝だったろうと思わせる。スクリーンショット 2015 03 22 16 18 54

五つ目は雷蔵と若尾が再開して踊る、ラテン音楽ふうのムード歌謡。雷蔵が一組の大きな白い羽根飾りを両手に携えて登場するのがおかしい。アステア・ロジャースものの映画であれば、ロジャースが持っていたような女性の持ち物だからだ。女性のような細面の雷蔵のクロースアップもあって、その両性具有性が強調される。もっとも後半では片方の羽根飾りを若尾が持って踊る。暗がりで踊る二人は『気まま時代』のナンバー”I Used to Be Color Blind”でのアステアとロジャースを意識していることは明らかだし、頭上からのバークリー・ショットも含め、もっとも一九三〇年代アメリカ・ミュージカル映画を意識させる場面だ。スクリーンショット 2015 03 22 16 24 13

六つ目は勝と中田のナンバー。椅子のつもりで腰掛けたコンガを勝が叩くと、中田がマラカスを振るところからはじまって、もっとあからさまにラテンふうになっている。何度か衣裳やライティングを変えて一つの場面を作るのも当時流行したスタイルだ。スクリーンショット 2015 03 22 16 40 30

そして圧巻なのがフィナーレの「狸踊り」。男性ダンサーたちの力強い踊りからはじまり、やがて女性も加わって四十名を超えるプロダクション・ナンバーとなる。バックダンサーは後段のひな壇に四行×四列で十六人の女性、前段のひな壇には男性十人、女性十人。最後に着物姿の俳優たちが加わる。これまた「ラテン風味」としかいいようのない音楽だが、印象的なのはバックダンサーたちの衣裳。頭に被った帽子からは、田植え女を模したのだとひとまず言えそうだが、派手な色遣いの衣裳と合わせてみると、ヴェトナムの農民がタイ風の民族衣装を纏ったのだと言えなくもない。冒頭で太いリボンを持って踊る男性ダンサーたちの姿を見ると、この時代にはなかった新体操も連想される。東宝が戦時中に東南アジアの民族舞踊を研究したことはよく知られているが、その成果は戦後松竹歌劇団にも取り入れられた、ということなのかもしれない。スクリーンショット 2015 03 22 16 45 30スクリーンショット 2015 03 22 8 58 43

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澤田隆治「平成コメディアン史」タイトル一覧

『ちくま』第四三八号(二〇〇七年九月)から第四六二号(二〇〇九年九月)の全二十五回にわたり連載されていた澤田隆治「平成コメディアン史」。単行本化を願ってそのタイトル一覧を掲げておく。

(1)元吉本興業・木村政雄さんに聞く 『ちくま』第四三八号(二〇〇七年九月)
(2)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(1) 『ちくま』第四三九号(二〇〇七年十月)
(3)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(承前) 『ちくま』第四四〇号(二〇〇七年十一月)
(4)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(3) 『ちくま』第四四一号(二〇〇七年十二月)
(5)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(4) 『ちくま』第四四二号(二〇〇八年一月)
(6)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(5) 『ちくま』第四四三号(二〇〇八年二月)
(7)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(6) 『ちくま』第四四四号(二〇〇八年三月)
(8)ダイハツ・ミゼット生CM誕生秘話 『ちくま』第四四五号(二〇〇八年四月)
(9)大阪のテレビ草創期のこと 『ちくま』第四四六号(二〇〇八年五月)
(10)『パッチリ天国』のてん末 『ちくま』第四四七号(二〇〇八年六月)
(11)花登筐さんのこと(1) 『ちくま』第四四八号(二〇〇八年七月)
(12)花登筐さんのこと(2) 『ちくま』第四四九号(二〇〇八年八月)
(13)特別鼎談 大村崑・芦屋小雁 『ちくま』第四五〇号(二〇〇八年九月)
(14)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(1) 『ちくま』第四五一号(二〇〇八年十月)
(15)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(2) 『ちくま』第四五二号(二〇〇八年十一月)
(16)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(3) 『ちくま』第四五三号(二〇〇八年十二月)
(17)花登筐さんと大阪喜劇 『ちくま』第四五四号(二〇〇九年一月)
(18)花登組と芦屋雁之助の昭和三十四年 『ちくま』第四五五号(二〇〇九年二月)
(19)「笑いの王国」旗揚げの裏側 『ちくま』第四五六号(二〇〇九年三月)
(20)「笑いの王国」旗揚げの裏側(2) 『ちくま』第四五七号(二〇〇九年四月)
(21)「笑いの王国」旗揚げの裏側(3) 『ちくま』第四五八号(二〇〇九年五月)
(22)「笑いの王国」解散の事情 『ちくま』第四五九号(二〇〇九年六月)
(23)「喜劇座」結成まで 『ちくま』第四六〇号(二〇〇九年七月)
(24)芦屋雁之助の功績 『ちくま』第四六一号(二〇〇九年八月)
(25・最終回)芦屋雁之助の本望 『ちくま』第四六二号(二〇〇九年九月)

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Orderly Disorder: A 40-Minute Whirlpool Trip That Miss Revolutionary Idol Berserker Cordially Invites All of You To

An English program notes prepared for Miss Revolutionary Idol Berserker’s “MS. BERSERKER ATTTTTACKS!! ELEKTRO☆SCHOCK☆LUV☆LUV☆LUV☆SHOUT!!!!!” toured in Europe in 2013. 革命アイドル暴走ちゃんヨーロッパ公演のために書かれた英文プログラムノート。

Miss Revolutionary Idol Berserker, a Japanese theatre company led by director Nikaidô Tôco, was founded in 2013. It was created shortly after she disbanded the Banana Gakuen Theatre Company (hereafter Banana), which became instantly popular upon its formation in 2008 and earned unanimous critical approval. However, Miss Berserker differs from other experimental performance groups owing to Nikaidô’s unique directional style, the company’s references to Japanese otaku culture, and its use of audience involvement.

Despite being a theatre major at her university, Nikaidô sharply denies she has learned anything important from college, and with good reason. The bizarre shows presented by Banana and Miss Berserker are the sort of performances that conservative theatre educators would not acknowledge as legitimate theatre. Each show is an exercise in veritable chaos. During these performances, fifty hyper-excited men and women in school or military uniforms dance and shout to the deafeningly loud music sampled and remixed from Japanese pop—most of which is either hit songs sung by all-girl idol groups, such as AKB48, or popular anime signature tunes. These songs are belted out while performers make repeated forays to the front of the stage and throw liquids and slimy objects into the auditorium.

If your assumption about the Japanese people is that they are gentle and polite, that perception would have been instantly shattered after witnessing one of the Banana’s shows. The performers were berserkers, frenzied warriors, who not only took center stage but also occupied the whole theatre as they yelled barbarically and incoherently; they were revolutionaries, defying the established notions of what theatrical performances should be and what sort of relationships performers should build with their audiences. These unique performers will also appear in the new, aptly named, Miss Revolutionary Idol Berserker’s shows.

But were and are they really revolutionaries? Some might think so after experiencing such a wild and crazy show. However, the performers’ motions are not as unstructured as they seem; in fact, they are carefully choreographed. The gestures of the cast members are so controlled and disciplined that, some would argue, their uncannily precise mechanical movements are reminiscent of fascist marches—perhaps even North Korea’s mass games. Unlike those in Living Theatre and many other legendary avant-garde companies active in the late 1960s and 70s, Miss Berserker’s members do not seem, at first glance, to be enjoying uninhibited freedom in their performances. Just as fascist marches and mass games in North Korea represent a single dictator’s will and commands, Miss Berserker’s performances are similarly under the rigorous quality control of director Nikaidô. Although cast members can freely bring in choreography, costumes, and props they think fit for the ready-made music during the rehearsal periods, Nikaidô demands that cast members unerringly reproduce the complex patterns and sequences—which she alone composes and coordinates—once performances have begun. In this sense, the performers are dancing and singing robots, merely repeating what they are programmed to do.

Still, despite their regimented movements, the cast members’ transcendental jubilance while performing seems to justify Nikaidô’s exacting method. After all, Miss Berserker’s performers are not so much “artists” who are supposed to express themselves as they are participants in a theatrical rite. They are contributors who share common values and want to achieve a collective ecstasy through Nikaidô’s meticulously prescribed protocol. Furthermore, while many of Nikaidô’s performers are “regulars” who have often appeared in Banana’s productions, not all participants are company members. Instead, interested individuals audition and are selected each time. Despite the harshness of her approach, the competitiveness in auditions and the increasing number of new applicants demonstrates the firm support Nikaidô has received from her would-be cast members.

Another feature that distinguishes Miss Berserker from classical experimental performance groups is its constant references to and borrowings from Japanese otaku subculture, such as its use of anime and idol songs. Although back in the 1980s, otaku was a term referring to introverted geeks or fans who were only interested in their “childish” hobbies, the current trend of fantasizing about fictitious worlds—epitomized by “cosplay,” in which anime and manga fans assume the roles of their favorite fictional characters by wearing their costumes—has since become so powerful and pervasive among Japanese young people that otaku has lost many of its original negative connotations. The video clips, music, choreography, and costumes Miss Berserker employs are pastiches or brazen copies from numerous sources: TV anime programs, girls’ idol groups, comic books, young-adult literature (called “light novels” in Japan), and other well-known figures and characters that young Japanese audiences would instantly recognize. Nevertheless, these appropriated visual and aural images come and go so quickly that audiences can only grasp their phantasmagoric effects. Audiences too old or foreign to share such a collective memory of Japanese subculture in the late 90s through the present may not appreciate them as readily, though they can still enjoy their effects.

Audience involvement—rather than audience participation—is yet another key element understanding Miss Berserker. Structurally rigid, its performances begin with “preset”: a start-up session in which the cast brings props, sets the stage, does warm-ups, and introduces themselves. The preset is then followed by the first medley, after which the performers clean the messy stage and prepare for the second medley. When the second medley ends, the cast scatters into the auditorium seats and lessons in “nerd-style” cheerleading—otagei kôshukai—begin. Each performer gives hands-on lessons to several audience members and teaches them how to cheer for the idols on stage, just as idol otaku sing along, holler, and dance while waving handheld chemical light sticks (an important item for otagei) during concerts. After taking these lessons, audience members are told to repeat the formulaic gestural patterns and shout phrases and to join the performers in cheerleading for Miss Berserker’s primary idol: Nikaidô. By utilizing their own bodies and voices, the audience members get more deeply involved in what they are witnessing and are led to the final phase: “changing places.” During this phase, the cast invites audience members to come onstage, sometimes taking them by the hand.

After completing this transfer, the performers go to the auditorium and leave the audience members on stage doing what they like. This technique is designed to literally demonstrate that the cast and audience members are interchangeable. The “changing places” phase of Miss Berserker’s performances is designed to harken back to the genesis of theatre, the festivals and carnivals of old, during which every member of the community was a participant and enjoyed the temporary subversion of the established order. Consequently, in the Miss Berserker performances, audience members are expected to abandon any hope of taking a critical distance to observe what they see and hear; instead, they should just sing, dance, and enjoy the show with and as the members of the company. 

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